「トラジェクトリー」書評 スペースに交差する人生の軌道
ISBN: 9784163920122
発売⽇: 2025/07/17
サイズ: 13.7×19.5cm/176p
「トラジェクトリー」 [著]グレゴリー・ケズナジャット
アメリカの大学を卒業後、大した動機も展望もなく英会話学校の先生として名古屋にやってきた主人公のブランドン。郊外のショッピングセンター内にある学校でぬるいレッスンを繰り返し、通行人にティッシュを配り続けてもうすぐ三年が経つ。マンツーマンレッスンの生徒は、カワムラさんという偏屈な中高年男性。彼の要望に応え、レッスン中は月面着陸を目指すアポロ十一号の記録を二人でひたすら音読することになっている。
宇宙(スペース)に飛び出し偉大な計画を成し遂げようとする男たちの会話を、さえない二人がさえない学校内の「小分けされたスペース」で再現する。この何ともしょぼくれた光景の中に、世代も価値観も異なる二人の人生の軌道=トラジェクトリーが交差する。自身の目的地を摑(つか)めずにいる若いブランドンと同様、人生道半ばをとうに過ぎたカワムラさんもまた、心許(こころもと)なく孤独な軌道のさなかにある人なのだ。毎週提出される彼の日記は、過去への恋慕と詩情に溢(あふ)れている。そこには何度か、小分けされうる方のスペースという言葉が現れる。カワムラさんは誰しも自分だけのスペースが必要だと綴(つづ)り、地球と月の間にあるアポロ十一号に流れる時間と、宇宙飛行士たちの人間性によって満たされていく船内のスペースに想像を巡らせる。
とはいえスペースは時に人を立ち往生させ、その曖昧(あいまい)さで人を不安にもするものだ。ブランドンの同僚教師も、自分たちに居場所はなく、あるのは「学校の壁の間の空間だけ」だと捨て鉢に寂しい言葉を口にする。ところが終盤、ブランドンはカワムラさんが綴る言葉の「合間」に「まったく別のもの」を見る。何かと何かの間、寂しく中途半端なスペースに、思わぬものが宿り得ることに気づく瞬間だ。それは意外としぶとく、おそらく何度でも蘇(よみがえ)り、思い出すたび無限に開けていく。最後の一文の後に広がる余白にも、ほの明るい哀愁が滲(にじ)む。
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Gregory Khezrnejat 1984年、米国生まれ。法政大准教授、作家。『鴨川ランナー』『開墾地』など。本書の表題作で芥川賞候補。