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アディショナルタイムを生きる 澤田瞳子

 このエッセイが掲載されている頃には、今年も残すところわずかになっているはずだ。この数年、大晦日(おおみそか)も元旦も結局仕事をしているため、年末年始といってもさして特別なことはしないが、昔から師走になると決まって、「えっ、もう〇〇〇〇年も終わりなの?」と驚かされる。その年を表す数字に慣れてきたばかりなのに、と思ってしまうのだ。

 十代の頃、年度末に毎回、「えっ、もうクラス替え?」と思った感覚にちょっと似ている。やっと慣れたと感じた直後に、級友たちに――そして〇〇年という数字に強制的に別れを告げさせられる。何事にも順応するのが早い人は、年が改まって、もしくはクラス替えからほんの一、二か月で、新環境になじめるのかもしれないが、私はどうもダメなのだ。毎年、少々サイズが小さい服を着せられた時のように、「いや、しかたないから我慢するけど」と言いたい感覚が長く続き、やっと生地が伸びて身体に馴染(なじ)んだ頃、「次はこれ!」と新しいものを押し付けられる。

 もしや私には、一般的な一年という単位がちと短すぎるのだろうか。一年が今の倍、七百日ぐらいあれば、毎年もしくは毎年度の終わりに、「えっ、もう?」と思わずに済むのかも。とはいえ、一年が長ければ長い分だけゆっくり馴染めればいいやと開き直り、やはり年の終わりにはまた一年が早すぎると嘆く気もする。となるとつまりは、強制的に定められた一年三百六十五日というルールに従って生きるしかないが、先日、よし、ならば次の年には早く馴染むぞと前のめりになった結果、とある書類に今日の年月日を書く際、つい「二〇二六年」と記すミスを犯した。

 年末年始の区切りを持たぬことといい、私は明確な線引きが万事苦手なのだろうか。ならばもう焦るのは止(や)めて、年明けひと月はまだ二〇二五年のアディショナルタイムぐらいの気持ちでゆるゆると過ごしてみてもいいかも、と自分に言い聞かせている。=朝日新聞2025年12月17日掲載