ISBN: 9784622097952
発売⽇: 2025/07/14
サイズ: 18.8×1.7cm/224p
「コンパートメント№6」 [著]ロサ・リクソム
一九八〇年代のシベリア鉄道を舞台に、寝台列車で出会った男女の交流を描くロードノベル。すでに映画化もされているが、ドライな筆致に詩的情緒が溢(あふ)れるこの原作が本当にすばらしい。
早春のモスクワ、一人のフィンランド人の少女がウランバートル行きの寝台列車に乗りこんだ。コンパートメントで同室になったのはロシア人の中年男。この男というのが、粗暴で下品で何かとナイフをちらつかせてくる、つまり旅の道連れとしてはどんな犠牲を払ってもお断りしたいタイプの相手なのだが、その野蛮な言動に少女は沈黙のみで対抗する。狭い室内に充満する息苦しい緊張感とは対照的に、車窓を絶えず流れていくシベリアの寒々しく荒涼とした風景。雪に覆われた針葉樹林やさびれた集落、ホームで吠(ほ)える野良犬たち。途中下車して散策する凍りついたような街の描写にもたまらなく旅情をかきたてられる。
相容(あいい)れない二人は同じコンパートメントの中にあってもそれぞれに一人ぼっちだ。しかし携帯電話もスマホもなく、身一つで目の前の存在に向き合わざるを得ない時代のなりゆきなのか、寝食を共にするうち彼らの間にはなんとも名付けがたい連帯が生まれる。関係変化の過程はロマンチックなものとして描かれていない。それは車窓を流れる風景と同じく、神秘と必然に揉(も)まれ常に移ろいゆくもので、著者の透徹した眼差(まなざ)しはすべての変化を等価に描き出す。
旅の終盤、異国の空の下で少女はようやく沈黙の鎧(よろい)を破り、男にもまた、脈々と受け継がれてきた暴力の連鎖からふと自らを解放する瞬間が訪れる。自分の本当の心に辿(たど)り着くためには、他人という経由地を挟み、遠回りせざるをえないこともあるのだ。たとえそれが意図せぬ隣人であっても、ただ隣りあっている、向きあっていることで生まれる曖昧(あいまい)な何かが最も明るい道標になりえることを、この寡黙な物語は教えてくれる。
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Rosa Liksom 1958年、フィンランド生まれ。作家。本書でフィンランディア賞。映画はカンヌ国際映画祭でグランプリ。