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「百日と無限の夜」書評 出産や育児への視線を変える力

評者: 藤井光 / 朝⽇新聞掲載:2025年11月15日
百日と無限の夜 著者:谷崎 由依 出版社:集英社 ジャンル:文芸作品

ISBN: 9784087700107
発売⽇: 2025/09/26
サイズ: 13.3×18.7cm/304p

「百日と無限の夜」 [著]谷崎由依

 「わたし」こと小説家の野原は、40代に入って第1子を妊娠し、7カ月半になるまで経過は順調だった。ところが突然、切迫早産の状態だと診断され、そのまま3カ月という入院生活に入ることになる。そうして彼女が否応(いやおう)なく直面する現実が小説を起動し、物語を複線化していく。
 まず、身体をめぐる物語として。入院して以降の野原にとって、自分の身体は自身のコントロールが及ばない他者として現れる。しかも彼女はその身体を生きていかねばならない。
 そして、時間をめぐる物語として。胎児の成長をひたすら待つことも含めて、受動的に過ごすほかない百日間、それが野原の生きる時間である。そして、出産の前からすでに、赤子の人生という自分のものではない時間にも、彼女は責任を持たざるをえないのだ。
 それと並行して、野原に次々と幻想の光景が訪れる。水や女の髪などの悪夢めいたイメージから、能に登場する、子どもを失った中世の〝班女(はんじょ)〟の物語が、現代の京都に生きる野原に合流し、喪失の気配を絶えず喚起する。こうして、自己と他者、過去と現在が互いのなかに入り込み、やがて子どもの父親とのジェンダー間のすれ違いとも交錯し、緊張感を高めていく。スピード感あふれる文体は、野原の個人的な体験と能という文化的な記憶を自在につなぎ、日常の出来事と哲学的な洞察を同時に展開するだけでなく、意表を突くユーモアを随所に炸裂(さくれつ)させる。
 野原と〝班女〟が両手をつないで舞うかのように、物語自体も直線的には進まず、複数の時間と空間を絶えず巻き込む、その感覚は、言葉が渦を生み出しているようでもある。その渦から、女性が「わたし」として生きるとはどのようなことか、という問いが浮かび上がるさまは圧巻である。出産と育児を、そして人と人との関わりを見る目を変える力が、この小説にはみなぎっている。
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たにざき・ゆい 1978年生まれ。作家、翻訳家、近畿大准教授。『鏡のなかのアジア』で芸術選奨文部科学大臣新人賞。