京都大学の前総長で、現在は総合地球環境学研究所の所長を務める山極寿一さんが、「サイエンスとフィクションの間」と題して早稲田大学(東京都新宿区)で10月に講演した。
ゴリラ研究で知られる山極さんがこの日話題にしたのは、AI(人工知能)が日ごとに存在感を増す現代社会。私たちがいま経験しているのは情報通信革命だ、と山極さんは聴衆に語りかけた。
「私たちの脳は、意識と知能が結びついて判断力をもたらしてきた。いまの情報通信革命は、知能をつかさどる知識の部分だけを取り出して、AIに分析させる。でも意識は取り出せないから、分析できない」
その結果、何が起こっているか。「意識と直感をはたらかせて情緒的な社会性を育む機会を、私たちは徐々に見失いつつあるんです」
では、どうすれば。霊長類学者が持ち出したのは、「150人」という数字だ。
直立二足歩行を身につけた人類は、徐々に大きな集団で暮らすようになる。150人とは、互いに信頼しあえる仲間の数の上限だという。
それを超えると、「外側の集団と交渉・交流するために、言葉が必要になる。そこまでは言葉じゃなく、音楽的なコミュニケーションでつきあっていたんじゃないか」。言葉以前の、歌や踊りといった身体的なやりとりが、共感力を高め、社会の力を強くするという。
山極さんは、哲学者の西田幾多郎、そして日本の霊長類研究を率いた今西錦司の名を挙げた。
「このふたりに共通する考えは、生物と非生物はたがいに調和する性質を持ち合わせているんだということ。そういう自然観を、いまこそ大事にしなければ。いくらサイエンスが正しい知識をもたらしても、いまの問題の解決策にはならない」
山極さんがひとしきり語ったところで、小説家の小川洋子さんが壇上に加わった。山極さんは河合隼雄学芸賞、小川さんは河合隼雄物語賞の選考委員。ふたりの対談を収めた「ゴリラの森、言葉の海」(新潮文庫)という共著がある。
小川さんが「私の小説に出てくるのは、言葉で社会とうまく関われない人。言葉を持たないほうが幸せだったかもしれない人間を書きたいという欲望がある」と話すと、山極さんは「人間は言葉を持つ前から物語を持っていたんじゃないか」と語った。「150人」以下の、音楽や踊りでのコミュニケーションが念頭にあるのだろう。
サイエンスだけでは解決しないと語るサイエンティストと、言葉を捨てた人を描きたい小説家。奇妙な取り合わせの対談は、小川さんが「言葉以外のものでも共感し合える能力を、人間も持っているということですね」と応じて締めくくられた。
講演と対談は早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)が主催し、800人が耳を傾けた。(編集委員・柏崎歓)=朝日新聞2025年11月19日掲載