ISBN: 9784260062831
発売⽇: 2025/10/14
サイズ: 21×2cm/296p
「ゆっくり歩く」 [著]小川公代
『ケアの倫理とエンパワメント』等(など)で、国内外の文学を「ケアの倫理」という視点から語り、長年見落とされがちだったその豊かな価値を呼びかけてきた著者。「ケアの倫理」とは、正義の追求や自立した個を是とする価値観とは真逆の「人と人が互いに依存し合うことを評価する倫理」だ。そんな著者の母親が、ある日パーキンソン病と診断された。本書は理論家でありながらケア実践の当事者にもなった彼女が、母の手を取り二人三脚で「ゆっくり」歩き始めた日々の記録である。
かつての立場が逆転し、ケアするものとされるものになった両者は、初めての経験におおいに戸惑う。失敗や行き違い、感情のぶつかりあいは日常茶飯事。それでもこの記録が絶望とは無縁なのは、どんなかたちでも互いに関係しあうことをやめない、作中の言葉で「ツタ力」なるものを二人が蓄えているからだろう。変わっていく母とともに、娘も変わる。筋トレで体を鍛え、性急さを手放し、その場の「今」に集中して母の声に耳を傾ける。一見効率の悪そうな「ゆっくり」なありかたを母娘が模索していく過程は、驚くほど創造的で、日々は発見に満ちている。
何より心打たれるのは、時に弱気になる母を励ますために、著者がこれまでに触れてきた物語を惜しみなく共有していることだ。ボルヘスやハン・ガンの小説から、日蓮の手紙、アントニオ猪木のドキュメンタリーまで、「母の魂が渇望する物語を探し、物語るのは二人の共同作業である」。この一節に、ハッとした。我が身を振り返ってみれば、もう長いあいだ自分一人の楽しみのためだけに物語を所有することに夢中で、それをじかに誰かと分けあうことには無関心だった気がする。物語を、時間を、場を、記憶を、誰かと分かちあうこと。その積み重ねの中でこそ、人はそれぞれの生をより深く生きることができるのだとじんわり感じ入った。
◇
おがわ・きみよ 1972年生まれ。上智大教授(ロマン主義文学、医学史)。著書に『ケアの物語』『翔(と)ぶ女たち』『ケアする惑星』『世界文学をケアで読み解く』など。