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小池真理子さん「ウロボロスの環」インタビュー 人間の心理を細やかに追い、浮かんだ人生の不可思議

小池真理子さん=目黒智子氏撮影

――昭和という時代が幕を閉じる1989年から物語が始まります。バブル経済の崩壊や阪神淡路大震災をはさむ約10年の時代の手触りと街の記憶が甦ってくる細部の描写に感嘆しました。

 初めから、携帯電話が使えない時代を舞台にするつもりでした。昭和天皇が崩御して、平成に切り替わるという、いろいろな意味で一つの時代が終わって、次が始まることを予感させる時期をそれに重ねて。私は常に、自分が実際にそこに居合わせた時代を書きたいと思っています。実際に通りすぎてきた時代の匂いであったり、感触であったり、目で見たこと聞いたこと、自分の五感が受け止めてきたものを物語と共に掘り下げていきたいのです。それこそが小説を書く側にとっての、一つの醍醐味と言えるかもしれません。

――「不幸や不運を想像しすぎる」心配性な彩和は、青山の骨董品店の2代目である高階俊輔に見初められて結婚します。俊輔を知性と猜疑心に満ちた人物として描く上で、骨董品店の2代目という設定が絶妙でした。

 主な登場人物は3人だけと言えますね。彩和と俊輔、そして俊輔の秘書兼運転手の野々宮歩。都内で西洋骨董を扱う店の、初代じゃなくて2代目っていう俊輔の設定は、最初から決めていました。骨董への造詣の深さと、芸術全般に向けた知識を豊富に兼ね備えた人物です。美術はもちろん、文学、評論、音楽、演劇に詳しくて、誰もついていくことができないほど深い教養の持ち主。一言で言えば、いわゆる絵に描いたようなインテリですね。その知性のかたまりのような男が、この物語の中で大変重要な役割を果たします。

――家族で蛍を見るという美しい、幻想的な場面で、俊輔が彩和に性的な行為を求め、拒絶される。そのとき、彩和が野々宮に助けを求めたことから、俊輔は野々宮と彩和の関係を本格的に疑うようになります。

 彼は品のいい、2代目の骨董屋の主人で、洒脱な話し方とセンスのよさが買われてメディアにも引っ張りだこです。でも、いかにも骨董屋の主人であるように見られることをとても嫌っている。そのため、和服を着ることは一切なく、いつも洋装でいたがるんですね。自分が世間にどう見られるか意識していて、ある意味、微笑ましい。その一方で彼には、本人ですら気づかなかったような、秘めた獣性みたいなものもあった。妻と使用人の間に、ちょっと疑わしい気配を感じていたところに、この夜の出来事が起こるのです。これをきっかけにして、その後、俊輔の妻に対する接し方が少しずつ、確実に変わっていきます。

――教養人としてメディアでも活躍する俊輔を彩和は敬っていました。2人の関係はバランスがとれ、うまくいくかに思えたのですが、彩和は「この幸福は永遠には続かない、続くわけがない」と自ら戒めます。彩和を、もともと不幸や不運を想像しすぎる人物としたことで、読者に対して不吉な予感を事前に示し、それが実現していくことになる。サスペンスの構成ともいえるし、暗い預言とその成就というギリシャ悲劇に見られる構造ともとらえられます。

 たしかにそうなんですが、特にギリシア悲劇的な構造をもつ作品にしたいと構えていたわけではないんですよ。目指したかったのは、私が若いころから好んで読んできた翻訳ものの心理小説です。人間の心理を極限まで細やかに追うことによって、物語に大きな緩急をつけなくても、人と人の関係が生み出す不穏な気配を伝えることができる。物語がうねっていく。

 今回は、終盤の一つの決定的な場面が、イメージとして私の頭の中に降りてきて、その一瞬を書きたいと思ったのが作品のテーマを作るきっかけでもありました。本当に、見逃してしまうほどの些細なシーンです。でもその小さな瞬間はすべてを決定してしまうのです。

 短編の場合は、ふと偶然、思い浮かんだ一つのささやかなイメージや、どうということのないワンシーンが、一つの作品として活かされていくことが多々ありますけど、長編は違う。イメージはあくまでもイメージでしかないため、それを小説の中に織り込もうとしたら、長い時間をかけて全体を把握し、丹念に物語の骨格を作っていかなくちゃならない。その意味でも、書き始めるまでの準備期間が思っていた以上に大変だった気がします。

――今回の小説の作り方が、まったく違って見えてきました。構造的には、ミステリーであればどんでん返しと呼んでもいいくらいの視点の反転があって、作品世界が立体化されます。

 これでもかと企んで、小説の面白さを追求していく楽しみっていうのが作家にはあると思います。実際、私自身、長い間、そのように書いてきました。でも、もうここ20年近く、そこからは離れていく一方です。

 長く生きてくる中で、自分の内側に生まれてくる世界や、これまで味わうことのなかったイメージを優先させて、それを言語化させる方向に興味が移ってきたんですね。今回の作品も、読み出すとやめられないような物語にしてみたい、と思ったのは事実ですけども、単に面白さだけを追求した結果、こうなった、というわけではないです。作者の中にあった抽象度の高いテーマをどうやれば平易なかたちで文章化させ、小説の中に落としこんでいけるか、ということが、個人的な勝負どころでした。

小池真理子『ウロボロスの環』(集英社)

――3人の人生をはらはらしながら見守っていたら……。という読み方が一番いいのかもしれませんが、少し頭でっかちに掘り下げるとしたら、タイトルにも明示されている「ウロボロス」が物語のテーマになっていますね。

 三島由紀夫の『太陽と鉄』というエッセイのような批評のような作品があって、愛読していました。そこには、自らの尾をのみ込み続けている巨大な蛇の環が地球を取り巻いているという趣旨の一節があって、すごいイメージだなと思っていたんです。自分の尾をくわえ、自身を飲み込み、滋養にしながら再生し続ける。始まりも終わりもなく、連環があるばかり……。

 この作品の執筆依頼を受けてから、書き始めるまでの間に夫の藤田宜永が末期の肺がんと宣告されて、2020年の初めに亡くなりました。そのどうにも解決のしようのない、深い喪失感、空虚感みたいなものと向き合っているうちに、時間はまっすぐ過ぎていくのではなく、ウロボロスのように連環するものではないかという実感が深まりました。始まりも終わりもなく、幸福も不幸もすべてつながり、私たちはその時間の流れに身を委ねて生きているのではないかという思いが強くなったのです。

――藤田さんと暮らし、見送った日々をふり返ったエッセイ集『月夜の森の梟』は、追悼を文学に高めた結晶のような作品ですが、そこでも通底するウロボロス的時間観が明かされていました。

 時間の流れへの強い関心は、母の認知症が重くなったときからありました。もっといえば学生時代に所属していた哲学研究会で、ニーチェの「永劫回帰」という概念にひかれたときからあったといえるかもしれません。どうにも不思議で、難しくて、その感覚をどうやったら文章化できるのか、ということもわからなかったんですけど、長編小説の中にこういうかたちで表現することができて、少しだけですが、満足しました。

 夏に「小説新潮」で新連載をスタートさせました。「ソリチュード」というタイトルの、エッセイでもなく小説でもない、まして手記でもない、散文詩を意識したものになっています。作者の心のなかに甦っては消えていく情景を、脈絡もなく毎回書いているだけのものですが、これまでになかった、異なる味わいの作品として楽しんでいただければと思います。