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「石原吉郎の詩の構造」 条理の果つる地から放たれた光 朝日新聞書評から

評者: 石井美保 / 朝⽇新聞掲載:2026年01月17日
石原吉郎の詩の構造: 他者、言語、世界 著者:斉藤 毅 出版社:法政大学出版局 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784588460289
発売⽇: 2025/11/13
サイズ: 19.4×3cm/382p

「石原吉郎の詩の構造」 [著]斉藤毅

 石原吉郎の詩に惹(ひ)かれながら、なぜ惹かれるのかがわからないでいた。凍(い)てつくシベリアの景色。深い静寂と、不意の躍動。「馬と暴動」と題された詩を読んだときの、疾風が吹き抜けたかのような衝撃は忘れられない。石原の詩の襞(ひだ)深くに分け入り、その意味に肉薄した本書を読んで、なぜ自分が彼の詩に惹かれるのか、その理由を得心した。
 石原の詩の根幹には、シベリア抑留の経験がある。戦時中、徴用されてハルビンにいた彼は一九四五年の冬にソ連軍に捕(とら)えられ、一九五三年に解放されるまで、強制収容所で重労働に従事させられていた。この過酷な体験に根ざした石原の詩を読み解くとき、著者は繰り返し、詩人の書いた一節に立ち戻る。
 「条件のなかで人間として立つのではなく、直接に人間としてうずくまる場所。それが私にとってのシベリヤの意味であり、〔中略〕〈人間であった〉という、私にとってかけがえのない出来事の内容である。」
 抑留者としての自己は、権力によって隅々まで縛られた囚人の一人として、剝(む)き出しのままで厳寒の野に投げ出されている。労働の合間のわずかなひと時に、彼は野の果てを流れる河のほとりにうずくまる。その姿勢は、権力の要請する一切の「条件」を放棄している。このとき、彼は社会によって印づけられた存在とは異なる〈人間〉となり、そこから、権力の軛(くびき)を逃れる「自由」が束(つか)の間(ま)顕(あらわ)れる。
 このような〈人間〉は、通常の意味での主体ではありえない。むしろ、周囲の樹々(きぎ)や空、風こそが彼を満たし、圧倒し、黙殺する主体となる。死と隣接した生の中で、社会的な人間主体であることを止(や)め、じかに大地にうずくまる〈人間〉となるとき、己の存在は自然の力が凝(こご)り、通過する座と化す。だからこそ、石原の詩において人間と自然の主客は逆転している。
 この本書の読解を読むとき、私はそのような〈人間〉の生と、シベリアにおけるシャマンの生との類似性を、またそのような〈人間〉の経験を記す詩の言葉と、神話との類似性を思わずにはおれない。神話において、主体となるのは人ではなく自然であり、神々であり、宇宙である。その中でなす術(すべ)もなく生き死にする個々人の生は、ただいっとき授けられた贈与、あるいは受苦としてある。
 石原吉郎の詩は、条理的な人間社会に突きつけられた、厳しい「否」である。それはまた、うずくまる一個の〈人間〉から発せられた、他者への呼びかけでもある。その虚空に宿る真実の光は、いまなお私たちを射抜きつづける。
    ◇
さいとう・たけし 1966年生まれ。大妻女子大ほか講師(ロシア文学・文化)。共著に『他者のトポロジー 人文諸学と他者論の現在』『暴力の表象空間 ヨーロッパ近現代の危機を読み解く』など。