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東京編 憧れかきたてる首都の素顔 文芸評論家・斎藤美奈子

『武蔵野夫人』に登場する貫井神社には湧き水が注ぐ池がある=4月24日、東京都小金井市

 〈林は実に今の武蔵野の特色といっても宜(よ)い〉。国木田独歩『武蔵野』(1901年/新潮文庫など)の一節だ。独歩がいう武蔵野の範囲は想像以上に広く、彼が一時住んだ「渋谷村」も明治期には落葉樹林が広がる武蔵野の一角だった。

 東西に長い東京は、西端の山地を除くと、西の武蔵野台地と東の低地に二分される。かつて武家屋敷があった台地が山の手、町人の町だった隅田川近辺の低地が下町だ。

 明治の下町の情景は樋口一葉『たけくらべ』(1895年/集英社文庫など)や永井荷風『すみだ川』(1911年/岩波文庫)が描いている。ともに台東区を舞台にした少年少女の失恋譚(たん)。江戸の雰囲気が残る下町でこそ映える物語だろう。

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 さて、現在の都心は西の台地と東の低地の境界にまたがる。皇居(旧江戸城)は台地の東端、東京駅が建つのは低地側だ。

 門井慶喜『東京、はじまる』(2020年/文春文庫)は東京駅が完成するまでのすったもんだを設計者の辰野金吾を主役に描いている。徳川家康が埋め立てる以前、ここは遠浅の海だった。古老によれば〈丸の内の土地ってなあ、要するに豆腐みたいなもんでさ〉。駅が開業したのは1914(大正3)年。基礎工事から6年9カ月後だった。

 赤煉瓦(れんが)の堂々たる駅舎は9年後の関東大震災(1923年)でも倒壊を免れ、辰野の名声は上がったが、この地震で下町は壊滅、東京はここから大きく変わっていく。

 その後の下町と山の手の暮らしぶりは、震災後から敗戦後までを描いた2冊の小説に詳しい。

 嶋津輝の直木賞受賞作『カフェーの帰り道』(2025年/東京創元社)は、震災後の上野のカフェーで働く女給たちの物語。いわばモダンな下町だ。一方、震災後、山の手は西側の郊外にまで広がって新興の住宅地を形成した。中島京子の直木賞受賞作『小さいおうち』(2010年/文春文庫)が描くのは私鉄沿線の町に住む中産家庭である。一家が暮らす「赤い三角屋根の洋館」は新しい山の手の象徴だろう。

 しかし、震災に次いで東京を襲った2度目の試練。1945年、上野のカフェー一帯は3月10日の東京大空襲で焼け、『小さいおうち』で描かれた新しい住宅地も5月25日の山の手空襲に直撃される。

 敗戦後、大岡昇平『武蔵野夫人』(1950年/新潮文庫)が歓迎されたのは、郊外の風景が戦争に疲れた人々に響いたせいかもしれない。復員兵の勉と人妻の道子が恋に落ちる姦通(かんつう)小説の名編で、舞台は武蔵野台地の小金井から国分寺にかけての一帯。「はけ」と呼ばれる野川に面した崖地が登場する。野川の水源で〈ここはなんてところですか〉と尋ねた勉に、土地の人は〈恋ケ窪さ〉と答える。その瞬間、道子は自分の感情に気づく。地形と地名が心理に及ぼす影響が、もう絶妙。

 この後、日本は経済発展への道をひた走り、バブルに突入する直前にベストセラーになったのが田中康夫『なんとなく、クリスタル』(1981年/河出文庫)である。六本木、青山、表参道といった港区や渋谷区のオシャレな街で青春を謳歌(おうか)する女子大生の生態は豊かな日本を誇示するようだったが……。

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 21世紀に出現したのは勝者と敗者を分ける過酷な格差社会だった。

 学費未納で大学は除籍、家賃を滞納して住む場所も失った21歳の修。福澤徹三『東京難民』(2011年/光文社文庫)があぶり出すのは新宿のネットカフェに始まり、バイトを転々としながら最後はホームレスに行き着く若者の姿である。

 一転、桐野夏生『ハピネス』(2013年/光文社文庫)は湾岸エリアに建つ52階建ての高層マンションが舞台である。〈運河の向こう側にタワマンが何本も聳(そび)えている〉。高所得のエリート層が暮らす最新の東京の風景。だが主人公はつぶやく。〈綺麗(きれい)だけど、それも一瞬〉。

 明治以来、日本中の憧れをかきたて、地方出身者の集積地となった首都東京。その素顔を私たちはどのくらい知っているだろうか。

 ◇「旅する文学」は今回で47都道府県を「踏破」しました。6月6日付で連載を振り返る総集編をお届けする予定です。=朝日新聞2026年5月2日掲載