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宮本輝さん「湾」 舞鶴で育った姉弟、美しい記憶と喪失と 崩れる世界、おとぎ話を今

宮本輝さん

 2018年に完結した宮本輝さんの代表作「流転の海」シリーズは、自身の父親の半生をモデルにした大長編だった。新作小説「湾」(新潮社)はいわばそのひとつ下の世代、自身とほぼ同年代の姉弟を物語の中心に置いている。

 宮本さんはしばしば、「風景から小説が生まれる」という言い方をする。今回の小説も、ある秋の日に編集者と訪れた京都・舞鶴で、低い山から眺めた風景が連れてきた。

 「小さな湾なんだけど、ものすごく美しかったんですよ。すばらしい海があって、その海にへばりつくように集落がぽつんぽつんとあって。この湾と集落が主人公の小説が書けないかなと思った。風景は何も語らないけれど、俺が語ればいいんだと」

 小学生のときに舞鶴に移り住んだ光太。舞鶴生まれで光太の2学年上、父親が異なる姉の皐月(さつき)。ふたりとその家族が、高度成長期の激動のなかで年齢を重ねていく。

 この物語を宮本さんは、令和を迎えて74歳になった光太の回想という形で描いた。振り返る時間は5年進んだと思えば10年戻って追憶のなかで揺らぎ、光太が子供時代に見つめた幻のような光景や、家族の財産をめぐる壮大な謎が織りこまれる。

 「今回は現実感というか、リアリティーみたいなものからなるべく離れてみようと。舞台は舞鶴だけど、読む人によっては舞鶴じゃなくていい。マジックリアリズムみたいな難しいもんじゃなくて、おとぎ話の要素を少し加えてみたかった」

 それはたとえば、「流転の海」で敗戦後の庶民の歩みを泥臭く描いた手法とは、すこし手ざわりが違う。貧困の苦しさや人間の汚さからはすこし距離をおきながら、美しい光景と記憶を慈しむ。どうして今回はこういった書き方を選んだのか。

 「やっぱり最近の世界のね、たとえばイスラエルとガザのこととか」。にこやかだった表情を、宮本さんは少しゆがめて語った。

 「こんなことがあっていいのか、世の中がなにかおかしく、きな臭くなってきてるなって。たちどころに世界が崩壊してしまうような、すごく危うい世界に僕たちは生きていると感じる。そんな今だから、美しいものに囲まれて育った子供たちがどんな人生を送るのか、そういう小説を書きたくなった」

 でもだからといって、ふわふわした絵空事だけで物語が進むのかといえば、そうではない。光太と皐月がそれぞれに悩み、傷つきながら大人になっていく過程にいつしか引きこまれてしまうのは、やはり熟練の技というべきか。

 「雲が流れるみたいに書くところと、ぐわっと掘り下げて書くところがあるんですよ」。物語の終盤、年齢を重ねた登場人物たちはひとりまたひとりと世を去っていく。作家はどの死も淡々と、でもときに静かな感慨をこめて、物語に刻んでいく。

 「最後の原稿を渡す前くらいから、ゆかりの深かった人が亡くなることが続いて。一緒に歩いてたつもりが、ふと横を見たらもういない。そういう喪失感みたいなものがあった。俺もそんなふうに消えていくんだな、それはそれでしょうがないなって」

 過ぎた時を静かに見つめるような幻想的な美しさと、去っていった人を思う寂しさと。語り手として人生を回顧する光太と、書き手の宮本さん自身のまなざしが交錯して、物語に深い味わいを加えている。(編集委員・柏崎歓)=朝日新聞2026年6月3日掲載