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『「反セム」の思想史』 反ユダヤ主義絶対視と知の巨人 朝日新聞書評から

評者: 酒井啓子 / 朝⽇新聞掲載:2026年08月29日
「反セム」の思想史: 持続するナクバの起源について 著者:小森謙一郎 出版社:青土社 ジャンル:人文・思想

ISBN: 9784791777709
発売⽇: 2026/05/26
サイズ: 13.2×19cm/352p

『「反セム」の思想史』 [著]小森謙一郎

 かつて世界史の教科書には「セム語族」「ハム語族」という語族区分が記されていた。旧約聖書に登場するノアの息子、セム、ハム、ヤペテを起源とする区分だが、その人種主義的用法から、近年は使用が控えられている。
 謎なのは、ハム語族はアフリカ系、セム語族は中東系の言語とされていたのに、欧米での「反セム主義」は反ユダヤ主義と同義であることだ。「セム」が中東系の言語なら、アラビア語を話すアラブ民族は「セム」である。だが、そのアラブ諸国はパレスチナを含め、イスラエルに批判的だとして、しばしば「反セム主義」と非難される。なぜセム語族のアラブが「反セム主義」なのか? なぜ反アラブは「反セム」にならないのか?
 本書の問題意識はこの矛盾にある。西欧のリベラルな思想を牽引(けんいん)し最も優れた哲学者、思想家とされる人々が、「反セム主義」批判のもとになぜ、ユダヤ人国家たるイスラエルの行動に目を瞑(つぶ)り続けるのか。なぜ反ユダヤ主義だけが人種主義的で許しがたい差別で、なぜホロコーストだけが他の虐殺と比類のない「唯一無二」の悲劇なのか。
 本書が取り上げるのは、ハーバーマス、アーレントというドイツの知の巨人と、ドイツ語圏の詩人ツェランである。欧州でのユダヤ人迫害の過去をどう反省し、克服するか真摯(しんし)に考えてきた哲学者たちが、なぜイスラエルの他民族への攻撃に批判性を持ちえなかったのか。一貫してイスラエルとの連帯を訴えてきたハーバーマスは、ガザでの虐殺やイスラエルの入植植民地性を知りながらなお、「ユダヤ=キリスト教文明」の「正義の原理」の枠を超えられない。
 さらに著者はアーレントを読み返して、「シオニズム(ユダヤ国家建設運動)支持者」と見なされてきた彼女のイメージは伝記の恣意(しい)性によるものとする。そして彼女の真意を、ナチス戦犯の裁判傍聴録末尾の「他民族と大地を共有することを拒む政治」批判のなかにみる。あたかも彼女が「土地を切り分け占有する」イスラエルの占領を批判しているかのように。
 なかでもツェランの再解釈は重い。彼の絶望は、ナチスを支持したドイツ知識人のホロコーストへの沈黙ゆえではなく、今のイスラエルにとって欧州でユダヤ人が経験したホロコーストの記憶が無意味だと悟ったからではないか。
 ホロコーストとナクバ(パレスチナ人の難民化)が同じひとつの厄災だと気づくことが大事だ、と著者はいう。国家や民族とは別の「新たな帰属意識」が共生性を生む、との著者の希望が、今のイスラエルに届けば。
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こもり・けんいちろう 1975年生まれ。武蔵大教授(ヨーロッパ思想史)。著書に『アーレント 最後の言葉』『デリダの政治経済学』、編著に『シンデレラの末永く幸せな変身』、訳書に『ホロコーストとナクバ』など。