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「メトロポリタン美術館と警備員の私」書評 画家の胸の震えに共振した日々

評者: 野矢茂樹 / 朝⽇新聞掲載:2024年09月21日
メトロポリタン美術館と警備員の私: 世界中の<美>が集まるこの場所で 著者:パトリック・ブリングリー 出版社:晶文社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784794974372
発売⽇: 2024/07/25
サイズ: 12.9×18.6cm/320p

「メトロポリタン美術館と警備員の私」 [著]パトリック・ブリングリー

 ブリングリーさんはニューヨークのメトロポリタン美術館で警備員を十年間勤めた。仕事は基本的に展示エリアで立っているだけ。それが言わば平熱で語られる。へ、そんなの面白いの?
 面白い。というか、沁(し)みてくる。縦糸に彼の生活、横糸に圧倒的な美術品群との関わり、それが結び合って、話が進む。敬愛する兄の死による喪失感は大きかった。それを機に、「ニューヨーカー」誌の仕事をやめ、美術館で立ち尽くす仕事に転職した。
 彼は知識も豊富で、鋭敏な感性をもっている。想像してみてほしい。古代エジプトの展示やレンブラントやゴッホの作品に一日中囲まれている。「芸術作品に出会ったときにはまず、何もしてはいけない。」 そうブリングリーさんは言う。徹底的に受け身になる時間が必要なのだろう。
 担当するエリアが変わると向かい合う作品も変わる。モネはきれいなだけだと思っていた。あるとき思い立ってモネの絵の前に立ち尽くしてみると、いくら見てもきりがないように思われ、しまいにはモネが経験した胸の震えに共振しているように感じたという。
 もちろんただ立っているだけではなく、あれこれと質問してくる来館者に対応したり、作品に触ろうとする不心得者に目を光らせたりもする。そんなちょっとしたエピソードも面白い。そして私生活ではやがて子どもが生まれ、子育てをし、二児の父となる。
 すると、美術品に対する向き合い方にも変化が訪れる。育児の途方もない現実に巻き込まれ、もう真っ白な状態で美術品に集中できなくなっている自分を見出(みいだ)す。そうして彼は、喧騒(けんそう)に満ちた世の中でもがきながら生きようと、美術館の外へと歩み出てゆく。
 私は別にもがきながら生きているわけではないけれど、ブリングリーさんとは逆に、この喧騒を逃れて、静かな美術館で半日ほどただ立ち尽くしてみたくなる。
    ◇
Patrick Bringley メトロポリタン美術館の警備員を経て、現在は同美術館のツアーの案内人などを務める。