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「陥穽」 才能と評価の隔たりに苦しむ姿 朝日新聞書評から

評者: 御厨貴 / 朝⽇新聞掲載:2024年10月05日
陥穽 陸奥宗光の青春 著者:辻原登 出版社:日経BP 日本経済新聞出版 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784296120161
発売⽇: 2024/07/18
サイズ: 19.4×4.3cm/564p

「陥穽」 [著]辻原登

 春風の雪のとざしを吹くまでは冬ごもりせよ谷の鶯(うぐいす)
 陸奥宗光の父宗広が、血気盛んな息子に与えた歌である。明治外交を率いた陸奥宗光のあやうい前半生を言い当てて妙である。陸奥の人生に560ページの伝記小説をもって報いた著者は、陸奥の「明治政府転覆計画」への加担と挫折に一番の関心を持った。すなわち陸奥の「青春の陥穽(かんせい)」を解き明かすことである。
 そのために著者は、いくつもの道具立てを用意する。
 まずは主語だ。余、陸奥、小二郎のごとくさりげなく変えながら、著者は、陸奥の獄舎生活4年余に焦点を当てる。そして静かな描写の中に彼のダイナミックな前半生を組み込んでいく。
 陸奥は幕末維新期にあって、自らが動き回ることによって人の渦を巻き起こし、人と人とのつながりと縁の中で時にコトを成し、時にコトに失敗する。桂小五郎、伊藤俊輔、勝海舟、坂本龍馬といった人物との交流の中に陸奥の姿は浮かび上がる。学問で身を立てようとした陸奥は、儒学そして洋学を貪欲(どんよく)に吸収する。才気煥発(さいきかんぱつ)ながら人を見下し嫌われる人格でもあった。著者は自らの才能と評価とに苦しむ陸奥の姿を常に忘れない。
 全体を通じて幻のごとく松永夫人が現れ、夢の中に影法師が現れる。「政府転覆計画」にあの冷徹な陸奥がなぜ加担したのか、著者は問う。陸奥も共鳴した「一大共有の海局」の向こうに有司専制を捉えたとき、陸奥は無謀な「政府転覆計画」に乗ったのだ。
 ベンサムの功利主義を訳す中で、獄中の陸奥は後半の人生を明治政府の中に求める。だが影法師こと明治天皇は、陸奥の特赦を認めず、後に外務大臣就任にも反対した。明治天皇との関係の難しさにさりげなく触れながら、全編を通じて著者は、陸奥とアーネスト・サトウとのノイバラや植物・庭園を通した交流を描き、ホッと安堵(あんど)の念を抱いたに違いない。
    ◇
つじはら・のぼる 1945年生まれ。作家。『翔(と)べ麒麟(きりん)』で読売文学賞、『花はさくら木』で大佛次郎賞。このほか『闇の奥』『冬の旅』など著書多数。16年に恩賜賞・日本芸術院賞。22年文化功労者。