桜庭一樹が読む
この演劇は、木が一本生えてるだけの場所で、二人の老人が、神(ゴッド)のようで神(ゴッド)じゃない何者か(ゴドー)をただただ待ち続けるお話だ。しかも、こんな不毛な会話を交わしながら。
「ゴドーを待つ」
「ゴドーが来るまでね」
「なーんにも起こらない、だーれも来ない、だーれも行かない、もうやだよ!」
「ゴドーか?」
「涙も涸(か)れたか」
ウーン、どうしてわたしは、このヘンテコな古典を何度も読み返してしまうのかな!?
著者は一九〇六年アイルランド生まれ。第二次世界大戦のとき、レジスタンス運動に参加したことから、ナチ秘密警察に追われる身となった。南仏の村に身を隠し、じーっと戦争終結(ゴドー)を待った苦しい経験が、本作に影響を与えた、という説もある。
この作品に描かれているのは何か? それは、いいことも悪いことも何も起こらないし、その状況を変えることさえ許されないという無力な人間が、まず絶望し、やがてその絶望に慣れ、苦しみに無自覚になっていくさまだ。だから二人は無意味な会話をし続けるほかないのだ。
刑務所で上演すると、受刑者が「俺たちみたいだ!」と大喜びするらしい。でも、べつに刑務所に限らないんじゃないかなぁ……。学校や職場や家庭においても、わたしたちがそういうドン詰まり状態(ゴドーをまちながら)に置かれることは、ときどきあるよね?
カミュは『異邦人』で、第二次世界大戦によって神なき時代が始まり、不条理な事件が起こる物語を描いた。でもこの作品では、そこからさらに袋小路に進んで、不条理な事件さえもう起こらない。“来ないものを待つふりをする”という、究極の不条理劇の超絶傑作――!
ベケットは戦時下における個人的経験を、普遍の物語に昇華してくれた。だから、いま読んでも面白く、胸苦しく、わたしもつい、「自分みたいだ!」と喜んでしまうのだ。(小説家)=朝日新聞2018年4月14日掲載