今から33年前にもなるのが信じられないが、阪神タイガースが21年ぶりに優勝した1985年、私は香港に赴任していた。銀行のトレイニーとして、ディーリングなどを学んでいたのだが、内心は鬱々(うつうつ)たるものがあった。自分の居場所はここではないという思いが抑え切れなくなっていたのだ。小説家になるのが夢だったが、現実問題として難しい。どうすればいいのかわからず、週末はビクトリア・ピークを徘徊(はいかい)する日々が続いた。山頂を一周する遊歩道を歩いているうちはまだよかったが、深夜に藪(やぶ)に分け入って、音楽を聴きながら缶ビールを飲んだりしていたのは、今考えても正気の沙汰とは思えない。香港にはコブラなどの毒蛇も多数棲息(せいそく)しているのだから。
ある日の夕方、散策に疲れた私は、山頂近くのカフェに入って空腹を満たそうとしたが、ふとした気まぐれで『鳩(はと)のロースト』を注文した。
運ばれてきた鳩を見て、失敗したと思った。鳩は大きな鳥というイメージがあったが、ニワトリと比べて小さい上に痩せていて、胸肉以外はほとんど食べられる部分がない。ほぼ赤身で、脂肪はほとんどなく、骨に付いているカリカリの肉も歯でこそげ取るようにして食べたのだが、それは香ばしくも不思議な美味だった。
私はふと、『聊斎志異』の『鴿異(こうい)』という一篇(ぺん)を思い出していた。鳩マニアの青年が、やっとの思いで手に入れた珍しい鳩を、高官から譲ってくれと頼まれ、泣く泣く献上する。その後、高官に会って鳩のことを聞くと、食べてしまったという。あれはとても珍しい鳩だったんですと口ごもる青年に、高官は、でも味はふつうの鳩と変わらなかったよと言い放つのだ。
そのときの鳩もこんな味だったのだろうかと思いながら、あっという間に完食してしまった。
世の中にはまだ知らない味があると、私は思った。鳥といったらニワトリかせいぜいカモしか知らないで、世界がわかったような気になっているのは、滑稽でしかない。そんな人間が書いた小説を誰が読みたいと思うだろう。
この鳩のように、たとえ小さくても読み手を感動させる一篇を書ければと思ったのを覚えている。『美味(おい)しんぼ』のようなフィクション以外でも、一皿の料理が食べる人の意識を変えてしまうこともあるのだ。
鳩を食べたことは、私の意識を確実に変化させたようだ。それから3年後の1988年、ソウル・オリンピックで聖火台に留まった鳩が丸焼きになったとき、私の脳裏に去来したのは、勿体(もったい)ないという思いだった。ちゃんと味を付けてオーブンで焼き直したら美味(うま)いだろうに。もっとも、あれを食べたら、さらに非難囂々(ごうごう)だったろうが。=朝日新聞2018年04月28日掲載
編集部一押し!
-
ニュース 坂口安吾「堕落論」めぐり「さしせまって金が入要」恋人の入院費のため? 没後70年展で初公開 朝日新聞文化部
-
-
鴻巣友季子の文学潮流 鴻巣友季子の文学潮流(第31回) 朝井リョウ分析の精度に慄然とする「イン・ザ・メガチャーチ」 鴻巣友季子
-
-
新作映画、もっと楽しむ 映画「爆弾」伊藤沙莉さんインタビュー 「それが果たして正義なのか」謎の予言男は問い続ける 根津香菜子
-
一穂ミチの日々漫画 サイトウマド「怪獣を解剖する」 生々しく刺さる問題意識(第5回) 一穂ミチ
-
インタビュー 朝宮運河さん「現代ホラー小説を知るための100冊」「怖い話 名著88」インタビュー ホラー小説文化のバトンをつなぐ 加藤修
-
トピック ネルケ無方×藤田一照×永井均トークイベント「仏教と哲学のあいだで考えたこと」 12月19日に開催 好書好日編集部
-
トピック 【プレゼント】第68回群像新人文学賞受賞! 綾木朱美さんのデビュー作「アザミ」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
トピック 【プレゼント】大迫力のアクション×国際謀略エンターテインメント! 砂川文次さん「ブレイクダウン」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
トピック 【プレゼント】柴崎友香さん話題作「帰れない探偵」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
インタビュー 今村翔吾さん×山崎怜奈さんのラジオ番組「言って聞かせて」 「DX格差」の松田雄馬さんと、AIと小説の未来を深掘り PR by 三省堂
-
イベント 戦後80年『スガモプリズン――占領下の「異空間」』 刊行記念トークイベント「誰が、どうやって、戦争の責任をとったのか?――スガモの跡地で考える」8/25開催 PR by 岩波書店
-
インタビュー 「無気力探偵」楠谷佑さん×若林踏さんミステリ小説対談 こだわりは「犯人を絞り込むロジック」 PR by マイナビ出版