二十五年前の冬、大きなリュックを背負ってヨーロッパをまわっていた。
イギリス、オランダ、ドイツ、イタリア、電車やバスで移動しながら、ヘトヘトになってフランスのマルセイユにやってきて、安宿を探し、ようやく見つかると、疲れ果て、ベッドに沈んでいった。
翌日は、電車でバルセロナに移動する予定だったが、電車が発車するのは夜中で、昼間に街をうろつくことにした。港に出ると、レストランがたくさんあって、多くの客がブイヤベースを食べていた。皿に盛られた魚介類や赤いスープが、とんでもなく美味(おい)しそうだった。
しかしわたしは、ひとりでブイヤベースを平らげる自信はなかったし、値段がはるので、「どうせ食えない」と諦めた。そして、もし今度、誰かとマルセイユに来ることがあったら、ブイヤベースを食べようと思った。
それから、安いサンドイッチと絵葉書を買って、港のベンチに座り、日本にいる恋人に手紙を書いた。「今度一緒にマルセイユに来られたらブイヤベースを食べよう」などと調子の良いことを書いた。
その後、夜まで街をぶらつき、電車を待つため、駅で生活している人に交じって、バックパックを枕に寝ていたのだが、寒くて、温かいもの食べたいと、頭に浮かんでくるのは、港のあのブイヤベースだった。
あれから二十五年経って、わたしはマルセイユに居た。手紙を書いた恋人は、とっくに別れてしまっていた。
今回は取材旅行で、編集者の男性、コーディネーターの男性、カメラマンの女性、わたしの四人旅だった。
「マルセイユに来たら、本場のブイヤベースが食べたい」というのは、わたしが言い出すまでもなく、全員の希望だった。そこで、パリ在住のコーディネーターの方が、タクシーの運転手や商店で聞き込みをして、ブイヤベースの美味(うま)い店の情報を集めてくれた。
地元の人が一様に美味いというのは、「ミラマール」という店で、三日目の夜に行ってみることにした。
出てきたブイヤベースは二十五年前に憧れていた以上の、素晴らしいものだった。
伝統のあるマルセイユのブイヤベースは決まりがあって、貝類、甲殻類は使わず、決まった魚だけで出汁(だし)をとるらしく、この店は、その伝統をキッチリ守っているのだった。またこの店のシェフは日本人というのも驚きだった。
大満足の満腹で、外に出て、腹ごなしに港を歩いていると、二十五年前わたしが手紙を書いたベンチがあった。木製のベンチはペンキがはげていたが、あとはそのままだった。=朝日新聞2017年11月25日掲載
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