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カーディーラーの快楽 羽田圭介

 昔からコーヒーが好きだ。専業作家になって以降、朝食後に入れるコーヒーは、メリハリのない一日に区切りをつけるための儀式のようにもなっていた。
 最近、カーディーラーによく行っている。電車と徒歩の行動範囲の外側に行ってみたいからと、自動車に興味をもった。そんなことを編集者に話していたら、週刊誌で「羽田圭介車を買う」という短期連載が始まったため、背中を押され、試乗しに行くようになったのだ。
 カーディーラーに行くと大抵、「お飲み物はいかがですか?」と訊(き)かれ、僕はホットコーヒーやアイスコーヒーを選ぶ。
 店によって、紙コップに注がれたり、陶器やガラスのコップに入れられたりと開きはあるが、外車メーカーのディーラーはおしなべて、おもてなしのレベルが高い。
 カーディーラーに行き始めの頃は少し緊張した。自転車でひょこひょこ行くのである。超高級外車のディーラーにも、自転車で行った。それでも、飲み物をどうするか訊かれ、コーヒーを頼み一口すすると、気負いがなくなった。
 綺麗(きれい)な空間に、応対の丁寧な店員たち、それにおいしいコーヒー。店によっては高価そうなエスプレッソマシンなんかも用意してあるし、アイスコーヒーのストローには上部分だけビニールがかかっていたり。試乗から戻り着席する度、新しい飲み物に取り替えられたりする。
 勿論(もちろん)、車を買ってもらうために少しでも客を上機嫌にさせるためのことだとはわかるのだが、それに流されて車を買ってしまう人もいるだろうな、と思う。
 職場や家でこき使われたりして癒(いや)しを求めている人が、丁重なもてなしを受ければ、ちょっと判断に迷っているくらいの段階だったら、その車を買ってしまうだろう。
 ただ自分の場合は、金銭感覚が昔と変わらないし、あとは接客で丁重に扱われたくらいで感動してしまうほど疲れてもいないから、それで買い物の判断が鈍ることはないけれど。
 ただ、カーディーラーに行くようになって、また少し世界が開けたような気がした。
 全国に無数にあるカーディーラーのどこへ行っても、無料で飲み物を出してくれ、丁重にもてなしてくれるのだ。それ目的でカーディーラーへ行く人がもっと増えてもいいのかもしれない。乗り回すかどうかは別にして、それまで車に興味はなかったものの金のある人たちが、気分で車を購入したりして、世間に金が循環するかもしれない。=朝日新聞2017年06月24日掲載