毎年この季節、ある人から段ボールにいっぱいのタマネギが届く。新聞社系の会社を定年退職したのち家庭菜園を本格的に始めて、日々の生活に必要な野菜のほとんどを作っておられる。季節になるとそのお裾分けが届くというわけ。癌(がん)を克服して何十年にもなる人で、私がもし大病にかかっても、この人を見習えば私も病に負ける気がしない。元々は音楽鑑賞仲間で、音楽と野菜作りが健康にどれほど良いかの証明になってはいないか。
タマネギは様々な使い道があるけれど、意表を突いたのは、東京のあるビストロで出されたスープ煮。大きなタマネギが丸ごと一個入っていて、それが芯までしっかり煮込まれていた。わずかな塩味だけだが、タマネギからのエッセンスがスープに溢(あふ)れて、こんな食べ方があるものだと感心した。まさに素材の力、発想の妙。特別のタマネギではなく、ごくフツウのタマネギだと聞いて、いよいよ感動した。
タマネギといえば、オニオングラタンスープに行き着く。オニオンを飴(あめ)色に炒めてスープ仕立てにしたものを、もっちりと溶けたチーズごとフウフウ吹きながら口に運ぶ幸せ。
けれどこのスープはフランスの本格的なレストランではメニューにない。ちょっと田舎の、ビストロあたりでお目にかかる。海外の旅に疲れたとき、このオニオングラタンスープにパンを浸して食べると、それだけで全身が快復する。パリでは出会えなかったがドイツに近いナンシーの駅前のビストロでこのスープにありついたとき、ああ幸せだ、とたちまち元気が出た。
一流レストランではコンソメに力が注がれる。スプーンで一口食べてみると、この一啜(すす)りでレストランの格が判(わか)る。けれどオニオングラタンスープは、タマネギやチーズや香草でいかようにもごまかせる。だから一流レストランがコンソメに凝るのはよく解(わか)るけれど、旅人の心身を養生してくれるのは、タマネギとチーズの方なのです。
折角(せっかく)フランスに話題が行ったのだから、生牡蠣(がき)にも触れておきましょう。
オペラ座のすぐ近くの「カフェ・ド・ラ・ペ(平和カフェ)」には、少し苦い思い出がある。最初の新婚旅行で生牡蠣を食べ、お腹(なか)を壊した。その後、結婚生活も壊れた。壊したのは牡蠣ではなく、私なのですが。
けれど懲りずにその後何度もこのカフェで生牡蠣を食べた。もちろんこの界隈(かいわい)だけでなく、秋深まればなおのこと、パリのいたるところで生牡蠣を食べることができる。
以来、パリで牡蠣を食べるときは大事なことを守っている。事前に整腸剤を数粒飲んでおくのだ。お腹を壊さず、結婚も壊さないための用心である。=朝日新聞2018年7月21日掲載
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