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漫画家・吉野朔実 未読の人がうらやましい!!

吉野朔実さんが気になる映画について語った。朝日新聞2011年1月28日付夕刊(東京本社発行)

漫画家・吉野朔実 4月20日死去、57歳

 文学を愛する人で、吉野朔実を未読でこれから読むという人がいるなら、その人がとても羨(うらや)ましい。その体験を譲ってほしいと思うぐらい妬(ねた)ましい。
 自分も、できるならもう一度新作を読みたいからである。
 いまこの文を書きながら、あれを勧めたい、これも紹介したい……いや、でも永遠に沈黙していたい……というアンビバレントの中にわたしはいる。
 吉野朔実は、凡(すべ)ての読者にそう思わせる、独特の存在感を持つ漫画家だった。わたしも三一年読み続けてきたが、人に勧めたり語ったりしたことは一度もなく、今日が初めてである。
 代表作は、『少年は荒野をめざす』だろう……。女流小説家、その娘で同じく小説家デビューした女子中学生、彼女とそっくりな少年……。個人的には、自分も中学生のとき読んだせいもあって格別な思い入れがある。なにより傑作である。
 この作品の特色の一つは“文学の香り”だ。全篇(ぜんぺん)で激しく匂いたち、読むとトリップするほど酔わされた。

文学・映画に愛

 吉野風とでもいうべきこの独特な作風の謎が解けたと思ったのは、後に読書エッセイを読んだときだ。最新刊は『吉野朔実劇場 悪魔が本とやってくる』(本の雑誌社・1404円、劇場シリーズ1~8巻をまとめた『吉野朔実劇場 吉野朔実は本が大好き』が7月に刊行予定)。
 吉野氏は幼いころから日本文学を読み耽(ふけ)り、売れっ子漫画家として多忙になってからも、海外文学、ミステリー、SFと雑食状態で読み続けていた。そして魅力的な友人たちと会い、本について語り、語り、語った!
 さらに『こんな映画が、 吉野朔実のシネマガイド』(河出文庫・907円)によると、映画への造詣(ぞうけい)もおどろくほど深かった。観(み)て、観て、楽しみ、他者と語りあい、思考し続けた。肥沃(ひよく)で異様な密度の秘密はここにもあったのだろう。
 その肥沃さを堪能できる作品の一つが『恋愛的瞬間』である。心理カウンセラーの青年を主人公にした恋愛テーマの短編連作。これは個人的には、30代半ばになって読み返したとき改めて猛烈に面白かったのだ。

「虚無の美」放つ

 一方『記憶の技法』は、幼いころの記憶にポッカリ空いた異様な“穴”に気づいた少女が、家族の過去を探す心理ミステリー。読書歴の影響で作品のジャンルが多岐に渡(わた)っていくことの臨場感をも味わえた。
 このように、物語の形式こそさまざまなジャンルを横断したが、同時に吉野氏は、吉野朔実を吉野朔実たらしめているもの、テーマ、つまり書き手にとり憑(つ)く“夢魔”と向きあい、愛して、戦い続けた人でもあった。
 吉野作品には主人公の鏡像たる存在が出現する。時に見知らぬ少年、時に双子の片割れとして。あのヒトこそ彼女の“夢魔”だったにちがいない。
 わたしは、個人的には……こう読み解いてきたが。母子密着的な環境で育った子供は、大人になってから、かつて母がいた部分に空いた異様な“穴”を発見する、と。その穴は、男女の恋愛、キャリア、金銭、名誉など、この世のものでは埋められない。そしてその穴にあるとき……この世ならぬもの――少年性や青年性を持つ“夢魔”がとり憑くのである。
 2010年代後半の現在、少年や青年の“そういう物語”は、より多くの若い読者から求められている。そのことと、現代の家族のありようとの間には、深い関わりがあるはずだ、とわたしは感じている。
 そして吉野朔実は、その精神に現代の若者と近しい虚無の美を持ち、描き続けた漫画家だった。だからこそ「いまこのとき紐解(ひもと)かれ語り直されるべき現代性」に満ち、光っているのだ。=朝日新聞2016年5月29日掲載