小学生の頃、動物の言葉を話せるお医者さんの話が好きだった。訳者なんか気にせずに読んでいたが、後に「山椒魚(さんしょううお)」(これも好きだったなあ)の人と知ってびっくりした。私のファンタジーとの出会いは、井伏ワールドだったのだ。(ヒュー・ロフティング著「ドリトル先生物語」全13冊、井伏鱒二訳、岩波少年文庫・734~864円)
地下迷宮で料理
その後、三十をとうに越していた私は「ドラゴンクエスト」に出会い、新しいゲームが出るたびに、冒険の旅を続けた。
「ドラクエ」はもう卒業したけれど、いまでもときどき旅に出る。なに、冒険の旅というのは簡単で、怠け者(do little=ドリトル!)の得意とするところなのだ。寝転がって、本を開けばよい。
最近一番はまっている冒険の旅は、九井諒子(くいりょうこ)さんの漫画『ダンジョン飯(めし)』である。地下迷宮へと入っていけば、ふつうに腹が減る。食料は現地調達。つまり、倒したモンスターたちを食べる。第1話の料理は「大サソリと歩き茸(きのこ)の水炊き」。サソリと茸だけでは寂しいので、干しスライムも入れよう。これが、うまい。大真面目で調理法を紹介して、うまそうに食べていると、ファンタジーの世界がぐっとこっちの体(腹)に寄り添ってくる気がする。
ファンタジーは空想をはばたかせるものだ。しかし、どこかで現実と結びあっていないと、ただの絵空事になってしまう。え? ファンタジーって絵空事じゃないのかって? 絵空事だけどさ、ただの絵空事じゃないんだな。これがもっと現実に入り込んで、現実の中から陽炎(かげろう)のように異世界がにじみ出てくると、空想というよりも幻想と呼ぶべきものになる。
分別臭さと戦う
幻想的な小説もたくさんあるが、この一篇(ぺん)というと、「風の又三郎」を挙げたい。そのほとんどは転校生の三郎が学校にいた短い間の現実のエピソードなのだが、風なんか吹かなくっていいと言う耕助に、風のどういうところが悪いのか答えるよう求める場面で、三郎は「それからそれから」と畳みかけるように尋ねる。ここなどは、現実の転校生である三郎に非現実の存在である風の又三郎が重なってくるようで、眩暈(めまい)のような感覚に襲われる。
現実の中に、ふいに裂け目が現(あら)われる。ゆらりと歪(ゆが)む。別の何かが透けて見える。そんな幻想の力という点で、「銀河鉄道の夜」よりも「風の又三郎」の方が私は好きだ。
もちろん、現実がなければ幻想も空想も成り立たない。しかし、私たちはさまざまな思いをこめてこの現実世界を生きている。幻想や空想がなければ現実も成り立ちはしないのである。ファンタジーの面白さは、荒唐無稽さにあるというよりも、むしろ現実との重層性にあると言えるだろう。
川上弘美さんの『七夜物語』では、主人公の女の子と男の子が現実と幻想と空想を縦横に行き来し、そうして現実とファンタジーがともに並んで立ちあがってくる。ふつう子どもは「よい/悪い」「美しい/醜い」「役に立つ/役に立たない」といったさまざまなことを分別する力をつけて大人になっていく。しかし、『七夜物語』では、まさにものごとを分別しようとするその力と戦う。妙に分別臭くなりがちな子どもが(そしてどっぷり分別臭くなってしまった私たち大人が)、「無分別」を受け入れるようになる戦いなのだ。いろんなものを、曖昧(あいまい)に、虚も実も、どちらも含みもっているのが人間じゃないか。川上さんは、そう歌い上げる。
そうそう、この物語でもいろんな食べ物が出てくる。焼きたての、さくらんぼのクラフティー。いつか食べてみたい。=朝日新聞2018年9月22日掲載