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仕事イコール自分の人生であるはずがない ヤマザキマリさん新刊「仕事にしばられない生き方」

文:大嶋辰男、写真:斉藤順子

――前作『国境のない生き方』が話題になりました。そして今回が『仕事にしばられない生き方』です。ヤマザキさんのとらわれない生き方が共感を呼んでいます。

 ちょっと変わった人生を歩んできましたから。「珍獣」の世界をのぞきたいんでしょうかね(笑)。それと、日本の人はいつもどこかで自分の思っていることを、自分の代わりに発言してくれる人を待っていますよね。おそらくみんな自分の言動にリスクを背負いたくない。だから、私のように石橋を叩かず、猪突猛進で、後のことを考えずに思ったことを何でも言ってしまう人間がおもしろがられるのかもしれない。

――新作のタイトルに「仕事にしばられない」とあります。いま、日本は猫も杓子も「働き方改革」です。どういうふうに見ていますか。


 政府が主導するっていうのが気になりますね。これがイタリアだったら、「人、それぞれ持ってるものも性質も違うんだから、生き方も働き方も違って当たり前でしょう? なぜ改革とか強制されなきゃならないの?」と国民から猛反発をうけるでしょう。ヨーロッパの国々のような地続きの大陸国は、他民族から侵略したり侵略されたりが繰り返された歴史がありますから、一つの国の中に、宗教も生活も民族も異なる人々が渾然一体となって暮らしている。それらの国では「右向け右」でみんなが右を向く、なんてことはありえません。日本がこうした「右向け右」を素直に受け入れられるのは、文化や人種の多様性を受け入れずにきたのは島国だからでしょう。共同体、という意識が常に人間にとっての生活の軸となり法となってきた国なんだと思います。

――ついこの間まで「一億総活躍社会」と言っていました。働くのか、休むのか、いったい、どっちなんだととまどった人もいるでしょう。

 政治家は「自分たちは国の明日を慮っている」という姿勢を見せるために、その都度宣言をする必要性に駆られるのでしょうね。権力の中枢にいる人たちは、「自分たちは国民のためを思って最良の提案をしている」と思っているのかもしれませんが、子供の学校じゃないんだから、いちいち宣言してみんなでああしよう、こうしようと国が国民を煽動することには違和感を覚えます。たとえ民衆にまとまりがなくても、様々な失敗や屈辱と勇気を持って向き合い、要因や対策をそれぞれが熟考してきた国々の人たちから見たら、国の中枢から一方的に発せられる号令のような提案は、先進国的ではない、と感じるかもしれません。

――「働き方改革」が論じられる一方で、これからは「副業」や「複業」の時代になるとか、生涯学び続けないと生き残れないといった論調も盛んです。おいおい早く帰れるようになってもまた働くのか?と突っ込みを入れたくなります。

 国会にも国民にとってもこの国における優先順位は〝個人〟ではなく、〝共同体〟なのでしょう。さっきも言いましたが、人はそれぞれ、働き方も生き方も違います。すべての人が仕事イコール自分の人生であるはずがない。人によっては、仕事は人生の一部で、家族と過ごすことの方が大切だと考える人だっているはずです。それから、日本では「終身雇用は素晴らしいもの」という捉え方をしているところがありますが、20歳そこそこで決めた会社で仕事を一生続けることが、本当に良いことなのかどうか。「これは自分に合わない仕事だ」と気がついたら、その人に合った別の仕事を見つけるほうが、良いのではないでしょうか。「日本は労働生産性が低い」と言われますが、自分に合わない仕事を続けるより、合った仕事を見つけたほうが、効率もよくなるはずです。「これ以上、働きたくない、耐えられない」と思ったら、「できません」と我慢をせずにいえばいい。本来は自分たちに選択の自由はあるだろうって話なんだと思います。

――日本人はマジメなんでしょうか。

 日本人は自らをそう思っているでしょうし、海外の人もそう捉えているけど、実際そんなにマジメなのでしょうか。ひとつのことを文句もいわずにこつこつやるのは、単に自分の生き方について主張することで、余計な混乱を生んだり、必要以上のエネルギーを使いたくないからなんじゃないかって感じることがあります。あれこれ言うより、言われたことをやっていれば、何か言われても「だってやれっていわれたから、やってるだけじゃないですか」と責任回避できる。「働いている」のではなく、「働かされている」というほうがラクなのかなと感じます。

 もともと日本人は江戸時代くらいまでは、いまのようにせかせか働いていなかったと思いますよ。仕事が終わればお風呂にいったり、蕎麦屋で一杯やったり、だらだらしたり、お芝居見物に出かけたりして、人間としての精神性を豊かにするゆとりがあった。明治維新からじゃないですか、働かなくちゃいけない、勤勉でなくちゃいけない、ダラダラしてる場合じゃない!という調子になったのは。確かにあの時代はダラダラしている場合ではなかったと思います、ただ、心の余裕を大事にする意識というのは様々な経験のプロセスがあって、徐々に人びとの中に芽生えていくもの。強制したからといってすぐに身に付くものではない。

 明治の文明開化時、日本も欧州の先進国と足並みをそろえなけりゃいけないという焦りが、多くの人々のモチベーションを上げたことは確かです。知識や教養の土台も枠も広がった。でも、はたして日本中の全ての人がそんな改革を願っていたのかどうか。イタリアのルネッサンスという精神・文化改革はごく一部の上層社会の人の中で発達し、多くの人達にはそんな潮流が社会に来ていることなど知る由もなかった。ただ、「なにやらキリスト教的教えに執着しない、突飛もないけど凄いことを言う人が出て来たらしい」、「教会のフレスコ画がいままでよりずっと面白いものになってきたようだ」、「これまでタブーだった素っ裸の凄い彫刻が見られるようになった」、といったソフトな浸透のしかたをしていった。
国を強くしよう、よりも、まずその根底には国を動かす力を持っていた人びとの、文化面からの画期的な精神的改革があったのです。

 日本では個人より社会が優先されているのも、「小国であってはいけない、できるだけ急いで強い国、周囲からリスペクトされる国にしなきゃいけない」という、明治維新時の気張りのような意識が未だにあるからなんじゃないでしょうかね。前述しましたが、江戸時代の民衆はもっと緩かったと思います。髷(マゲ)を切らなきゃいけない日が来るなんて誰も想像すらしていなかったでしょう。

――日本で仕事というと思いつくのが我慢と忍耐という言葉です。バカバカしいなと思いながら長々と会議につきあわされ、終業時間になっても上司の顔色をうかがって帰らない。経費削減の名目の下、黙々と自腹を切らされる。一時期、問題になったブラック企業もこうした我慢と忍耐の風土が生んだ面もあると思います。

 我慢強さを象徴するテレビドラマに『おしん』があります。日本人はみんな主人公の健気な生き方に感動していましたし、イスラム圏やアジアでの視聴率は大変高かったと聞きます。でも、実はイタリアではあのドラマは評判が悪かった。「子どもにこんな仕打ちをするなんて酷すぎやしないか」と怒るわけです。キリスト教的な倫理観では考えられないような描写が気になったのでしょう。そもそも、イタリア人は自分の子供が学校でいじめられていることがわかれば、さっさと転校させます。周りから強いられる我慢や忍耐はまったく美徳にはならないのです。

 私の夫は研究者なのですが、米国の大学で働くことになり、しばらくシカゴに住んでいたことがありますが、そこで見た彼らの働き方、特にエリートと呼ばれる人たちの働き方は実際にすさまじいものがありました。涙も情けも容赦もない厳しい競争社会ですから、そこそこのポジションを確保しても、いつそこから引きずり下ろされるかもわからない。おじいちゃんになっても朝早くジムで走って体力維持の努力を怠らない。エリート層の子供たちが通う学校では毎日、山のように課題を出されて、みんなひーひー言いながら勉強させられます。それだけの努力と苦労を積み重ねるのは、本当に超人的だと思いました。ちなみに、我が家のイタリア人の夫にはこのアメリカ式働き方に全く適応できず、「こんな生活は人間的ではない」「もういやだ」といって、大学の慰留を蹴っ飛ばして、イタリアに帰っちゃいました。

――そういわれてみると、日本人は働くことが好きなんじゃなくて、働いたふりをすることが好きなのかもしれませんね。マジメに働いているといっても、定時に家に帰ってワインを飲んでいるイタリアの方が日本よりも労働生産性が高いという話もあります。これって悲劇なのか喜劇なのか……。

 生活を謳歌しているイタリア人の暮らしや生き方にあこがれを持つ日本人は多いですよね。実際、イタリア人は日本人みたいに残業したりしません。『テルマエ・ロマエ』の映画を撮影したときも、午後6時になったら、スタッフもエキストラもみんな、「はい、今日の仕事は終わり!」って帰っちゃいました。仕事が終われば、キャストの人達と毎日おいしい食事やワインを楽しんだり、家族や友人たちとおしゃべりしたり、みんな思い思いに楽しく過ごすのです。そうやって存分に人生を楽しむからこそ、仕事のモチベーションも高まる。翌朝目覚めたら「昨日は楽しかった」「さあ、きょうもやるか」となるわけです。私も締め切りに追われている時こそ、食事に行く約束を入れたり、旅行の予約したりしてモチベーションを高めています。

 日本の人は、楽しいことを生きる事の優先順位のトップにしては人としては失格だ、というように考える傾向があるように感じます。それは共同体の部品の一部分であるという意識のためなのでしょうか。自分がその仕事を好きかどうか、辛いかどうかなんてことは考えることもせずに日々を過ごせているのなら、それだけで良いことだと思います。でも実際は全くそうではない。みんな、葛藤し、辛さと向き合い、心の底では共同体のために個人を潰して生きることに疑問や辛さを感じているのが本音なのじゃないですか。

――いわゆる「同調圧力」ってやつでしょうか。

 今回出した本にも書きましたが、自分が帰属している社会や集団に疑念を持ったら、一度、思い切りはみ出してみることもいいと思うのです。同調圧力があるときに、自分は帰属というしがらみにとらわれない方が人生を謳歌できるのか、それとも、まわりと足並みをそろえる方が自分に合っているのか、自分の胸の内に問いかけてみたほうがいい。私はもともと子供の頃から「そんなこと、やっちゃいけません」といわれると、どうしてもやりたくなる性分でしたし、実際、日本にいたときはいつもはみ出ていましたから、周りもすっかり、自分たちに同調させることを諦めていた。この人はもうこういう人なんだと(笑)。

 私は14歳のときにはじめての海外旅行でヨーロッパを一人で1カ月かけて回りました。いま思うと、母は語学もできない子供をよく一人で行かせたなと思いますが、そのときに受けた影響が大きかった。ヨーロッパの人たちの暮らしぶりや生き方を見て、自分がどこか変わっていること、つねに周りと同調できるわけではないことを理解しました。そして、ヨーロッパの社会は、個人が自身の等身や、器の大きさをしっかり認識し、自分なりの教養や知識、経験をベースにした価値の基準を持っていることが前提となって成り立っていると知ったのです。

 冒頭でも述べたように、欧州では常に他民族との入り混じりが繰り返され、何が正しくて何が正しく無いのかは自分の頭で考えるしかない時代が長く続きました。その歴史が時間を掛けて熟成して、いちいち号令をかけなくても、人それぞれが自分の判断で得た考えを持ち、必要な時にはまとめられる社会ができたのです。

 そういえば今回ノーベル医学生理学賞を受賞が決まった本庶祐さんも発言されていましたね。教科書に書いてある事が正しいとは限らない。疑問をもたなければならないって。確かに、疑問を持てばすっきりしないかもしれません。また、疑問を持つことは怠けがちの人には面倒かもしれません。しかし、それこそが人間にとっての探究心と気付きへの大切なスイッチなのだと思います。

――「右向け右」の世の中は成熟社会とは正反対ですね。

 みんなと同じように働いたり、休んだりする社会は、人と同じ事をやればいいだけなのだから、責任も追及されないし、あれこれ考えなくていいからラクかもしれませんが、果たして、疑問や同化への反発心を持たない社会に、活力や発展はあるのかと思うのです。アップルの創業者、スティーブ・ジョブズを漫画に描いたとき、つくづく考えさせられたのは、日本ではジョブズのような人間は発生しない、仮に生まれたとしても社会では潰されてしまう、ということです。あんな人が会社の面接に来たら一発で落とされてしまうでしょうね。いつもみんな一緒で、失敗することもリスクをとることも許されない均一社会では、ジョブズのような圧倒的な個性とカリスマを持った人間は活躍できません。

――これまでヤマザキさんはいろいろな場所でいろいろな働き方をしてきました。17歳でフィレンツェの美術学校に留学してからもいろいろなアルバイトをし、シングルマザーになってから、生活費を稼ぐために29歳で漫画家になりました。それから日本に戻ってテレビのリポーターをしたりイタリア語の講師をしたり。『テルマエ・ロマエ』がヒットしたときは43歳でした。

 自分の思い通りに生きていける人間なんてそうそういません。私だって画家を目指して留学していたわけで、まさか、漫画家になろうなんて思ってもいませんでした。自分の意志や努力とは違うところで、人生の潮目は変わる。自分が思ってもいないところに流されていることもあるんです。だめなときはだめだし、うまくいくときはうまくいく。流された場所が実はとても心地が良かったりもする。私の場合、生活の拠点も仕事も転々としましたが、それらすべての経験が漫画家として勝負するときに生きてきたと考えています。

――働くことを考えることは自分の人生を考えることなんですね。ところで、バリバリ働いてバリバリ稼ぐことが人生の成功であるかのように考える傾向もいまの社会には強くあるように思います。そういう点で、ヤマザキさんが本の中で、折に触れて、お金に対して疑問を投げかけているのが印象的でした。

 お金って手ごわい相手ですよね。ウイルスみたいに人の中に入り込んで、その人のコンプレックスや孤独、傲慢さをどんどん暴いてしまう。お金がなければ生きていけないけど、あればあったで使い方も難しい。お金に毒されないことは大切です。なんでもかんでも損か得かで行動していると、自分の視野や生きている世界が狭くなってくる。

 私はお金に困っている時でも、考えが行き詰まってきたなと思うと、なけなしの貯金をはたいて旅行にでかけていました。異なる環境に身を置けば価値観もがらりと変わってきますし、自分が生きている世界、生きなきゃいけないと思い込んでいる世界が狭いことに気づきます。そして「ああ、世界って本当に広いな」とあらためて認識させられる。「自分はこうでなきゃいけない、ああでなきゃいけない、なんてことはもうどうでもいいや、その他大勢の生き物と同じく、地球で呼吸して日々をまっとうに生きていれば」というシンプルな思いしか残らない。人生には時々広い場所で深呼吸することも必要です。