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中高生向け講義 学問のエッセンス広く伝える

中高生に講義する木庭顕・東京大名誉教授=2017年、横浜市の桐蔭学園、朝日出版社提供

 中高生向けの講義を本にしたものから、注目すべき良書が生まれ、ヒット作も出ている。代表的なものが、加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』である。同様の、出色の試みとして木庭顕『誰のために法は生まれた』も挙げておきたい。これら単著に対し、桐光学園中学校・高等学校編『高校生と考える日本の問題点』(左右社・1620円)のように、複数の著者がリレー講義した内容をまとめた本も多い。
 かつての啓蒙(けいもう)書と異なるのは中高生との対話で本が編まれている点だ。著者も、上から「教えてやる」のではなく、人生の先輩としてフラットな関係で彼らに真剣勝負を挑んでいる。
 中高生相手だからといって、内容は決してやさしくない。だが、知的刺激をかき立てる仕掛けをふんだんに活用し、最良の学問成果を提示し、その本質を彼らに伝えようとしている。研究者は専門書や論文で評価されるため、一般向け書籍の執筆を後回しにしがちだ。しかし、これらの本は、最高の知性に中高生向けに語ってもらうことで、そのエッセンスを(中高生だけでなく)広く一般市民にアクセス可能にした点で、きわめて意義が大きい。こうした営みは、私たちの社会が、健全な判断を民主的に下す知的基盤を形成するうえでも不可欠だ。

日常語から出発

 日常語を手がかりに、それに厳密な定義を下して作る言葉で本質を伝える営みが、学問、とりわけ社会科学には欠かせないと、1970年代に主張していたのが、内田義彦『社会認識の歩み』だ。社会科学は生活現実の上に立っている。その理論化・抽象化を経て社会科学は成立するので、必然的に「生活現実」と「科学的世界」の往復運動としての色彩を帯びる。しかも日本では当初、社会科学が外来物だったため、日常語と学術用語の乖離(かいり)がいちじるしかった。真に社会科学を我が物とするには、徹底して日本語で考え抜き、理解に到達する作業が不可欠だ、と内田は力説する。

個と自由の尊重

 これらの本のメッセージは、著者の専門(歴史学/法学/経済学)や生きた時代を超えて、不思議なほど共鳴しあっている。「個」とその自由の尊重、「個」を出発点として社会や国家を組み上げていくボトムアップ型の社会構成原理の承認、そして国際関係における平和と互恵性の希求という点で、共通の知的基盤が形成されているのだ。
 木庭は、個人とその自由(かけがえのないもの、取り換え不能なもの)の尊重、それを守るためのルール(=「占有」)の重要性を強調した上で、法は最も弱い個人の立場に立ち、個人の犠牲のもとに自らの利益を追求しようとする集団の解体を図る点に、その究極目的があると説く。
 内田もアダム・スミス研究を通じて、他者の共感を得られるルールの下であれば、個人が利己的に行動しても社会は解体せず、逆に社会をボトムアップ的に形成していく契機となりうることを明らかにした。
 こうした「個」と「全体」の関係は、加藤が描いたように、日本ではしばしば転倒させられてきた。太平洋戦争は、その集中的な表れである。戦死者の死に場所すら家族に伝えられなかったこと、日本軍の捕虜となった外国人兵士の死亡率が、他国に比して圧倒的に高かったこと……。日本政府は、自国の兵士と国民の生命すら軽視していた。結局それは、手痛い敗北と国民経済の生産力低下を招き、大日本帝国を破滅に至らしめた。個に犠牲を強いる全体は結局、それ自身の滅亡を招くのだ。
 中高生向け講義が、社会科学の最良の成果を引き出し、その本質を日本語で考え抜くことの重要性を示しえた点に、学問の新しい可能性を見いだしたい。=朝日新聞2019年1月19日掲載