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弁当の光景 宮城谷昌光

 先年、私は母を亡くした。
 母は大正生まれであったが、その大正時代と昭和初期のことを語ったことがない。これは私の想像にすぎないが、母の少女時代は苦渋に満ちたものではなかったか。その母は、どういうわけか、東京日本橋兜(かぶと)町の証券会社に勤めていた。その話は、母から二、三回はきかされたので、楽しいこともあったにちがいない。が、戦況が悪化して、東京に住めないとさとって、姉のいる愛知県宝飯(ほい)郡三谷(みや)町へ移ったのであろう。やがて母は私を産んだ。
 私は昭和二十年の二月生まれであり、その年の八月に終戦を迎えたので、わずかに戦中派である。あまり昔のことを語らない母が、
 「あなたを産んだあと、食べ物がなくて困ったのよ」
 と、いちどだけいったことがある。私には飢えて苦しかったという記憶がまったくない。食料難に関しては、画家の原田維夫(つなお)さんの話をすぐに憶(おも)いだす。原田さんは私より六つ歳上(としうえ)なので、完全に戦中派である。
 「昼休みになると、家から弁当をもってくる子は、三人くらいで、あとの子は水を飲んで運動場を走り回っていた」
 原田さんも水を飲んで走り回っていたひとりにちがいなく、哀(かな)しい光景である。走ればよけいに腹が減るとおもうのは、実情を知らない者の浅薄(あさはか)な想像にすぎないであろう。そこにはいたたまれないほどの空腹があった、と想(おも)うべきである。そういう原田さんだからであろう、私や編集者と旅行した際、旅行先でだされた料理をいちどもまずいといったことがない。私は感心するしかなかった。
 食べ物に関してさんざん辛酸(しんさん)をなめた原田さんには、いいにくいことであるが、小学生となった私はかならず母から弁当を渡された。昼どきに弁当箱を開いて食事をして、食事を終えれば弁当箱を閉じる。それをくりかえすことだけなのに、ほかの生徒の目つきが少々変わることに、ようやく気づいた。
 ――私はなにか悪いことをしているのだろうか。
 落ち着かなくなった私は、さりげなくほかの生徒の弁当箱をのぞきみた。ごはん粒に線がはいっていた。おどろいたことに、みたかぎりでは、みなそうなのである。それが白米でなく麦飯であると知った私は、帰宅すると、明日から麦飯の弁当にしてくれと泣きながら母に訴えた。が、わが家は旅館であり、麦飯は炊(た)けない、とさとされた私は、いまに至るまで麦飯を食べたことがない。それが幸(こう)なのか不幸なのか、いまだにわからない。=朝日新聞2019年2月2日掲載