「ボールドウィン狂信者」として映像化を夢見ていた
キング牧師らとともに黒人の権利を求める公民権運動の中心人物として活躍し、差別構造の本質を描いて共感を集めた米作家ジェームズ・ボールドウィン。その小説を読んだことでバリー・ジェンキンス監督は「男らしさ、そして黒人の男らしさを考えるきっかけになった」と話し、映像化の夢を抱き続けてきた。
「僕はボールドウィン狂信者だから、いつか映画にしたいと思っていました。ボールドウィンは人間の持っている意識、内面を見事な筆致で描き、物語という枠組みを通して伝えることが出来る唯一無二の作家。黒人の若い作家が自伝的要素を含む小説を書いている点も何かひかれるものがありました。でも、『ジョバンニの部屋』や『もう一つの国』を映画化するのは何か違う気がしていて。2009年ごろかな、唯一読んでいなかった『ビール・ストリートの恋人たち』を読んだ時、ボールドウィンの持つ二つの声が見事にブレンドされていると感じたんです。一つはティッシュとファニーの純粋で生き生きとした愛。そしてもう一つはアフリカ系アメリカ人が受けてきた構造的な理不尽さ。それが若い2人のラブストーリーを通して感じられて、『この作品は映画に出来るかもしれない』と思いながら読み進めていきました」
映像化の許諾を得る前の13年、ジェンキンス監督はすでに脚本を書き上げていた。「本来なら権利をとってから書き始めるんですけどね。小説のありのままをスクリーンに映すためには、自分自身をどこかに缶詰めにして脚本を書き上げるべきだと考えたんです。そこで、ほんの少しの生活費を持ってヨーロッパに渡り、ブリュッセルで『ムーンライト』、そしてベルリンで『ビール・ストリートの恋人たち』の脚本を書きました」。ボールドウィンの遺産管理団体は映像化の許諾に大変厳しいことで知られる。しかし、ジェンキンス監督の熱意に押され、初の英語圏での映像化となった。
小説家を志し、文学を学んでいたジェンキンス監督は脚本に強いこだわりを持つ。「普通の脚本には出来事が淡々とつづられていて、どうしても冷たい文章になってしまうけど、僕は脚本にたくさんの感情を書き込んでいます。それは役者やスタッフに『僕が作ろうとしているもの』を伝える一つのソースにもなる。今はこうして映画監督をしているけど、もともとは脚本を学ぼうと映画学校に入り、そこで強制的に監督も学ぶことになったんです。でも、自分が書いた作品を自分で撮ることができれば、作品を守ることが出来ますよね。それに気づいたんです」
文学を通して地上すべての人と人はつながれる
周りの学生がハリウッド映画に夢中になる中、ジェンキンス監督は1人、外国作品に影響を受けて映画を作っていた。「ウォン・カーウァイの『花様年華』や『恋する惑星』、ゴダールの『勝手にしやがれ』……。インスパイアされた映画はたくさんあるけど、一番はやっぱり本です。脚本はある意味、文学的要素があると思っています。僕の脚本は他の人と違うから、これが正しいやり方なのか分からなくなった時期もあります。でも、『ムーンライト』でアカデミー賞作品賞だけでなく脚色賞をもらうことができ、自分の声に正直に作ってきて良かったんだと確信しました」
ささいなトラブルで白人警官の怒りを買い、無実の罪で留置場に送られたファニー。面会室のガラス越しに、ティッシュが「赤ちゃんができたの」と伝える。「ビール・ストリートの恋人たち」は顔のアップが多用され、観客一人ひとりに語りかけるようにせりふが発せられる。それは「キャラクターの頭の中に没入するように映画を体験して欲しい」というジェンキンス監督ならではの手法だ。「例えばティッシュの記憶、意識、夢、その全てを感じてもらうために、カメラワークや色彩、音響、あらゆるツールを使って表現しようとしています。ティッシュが考えている言葉は、実際に頭の中に響いているみたいに4方向のスピーカーから鳴るようにしました。これは文学には出来ない、映画ならではのこと。一方、文学は文字を通して全ての感覚を喚起することが出来ます。そこに書かれている文字を読むだけで、においすら頭の中で再現されるように」
長編映画2作目にしてオスカーを手にしたジェンキンス監督だが、今も文学に強い憧れを持つ。「文学を通して、地上に初めて誕生した人から、地上を最後に去る人まで、全ての人と人がつながることが出来ます。そして、その物語は全てを網羅することだって出来る。僕は映画を作っているけど、アートの形として文学は上の存在なんです。ペンと紙、あるいはそれがなくても、ケチャップとナプキンさえあれば、物語を書くことは可能なんだから。残念ながら映画にはそれが出来ない。だから、映画は永遠に文学を追いかける存在なんです」
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