1. HOME
  2. コラム
  3. 谷原書店
  4. 【谷原店長のおススメ】読んだ途端に口中に広がる思い出 森下典子さん「いとしいたべもの」

【谷原店長のおススメ】読んだ途端に口中に広がる思い出 森下典子さん「いとしいたべもの」

 全国津々浦々の旅での出会い、ふと出逢った野良猫との交流――。そんな日常の光景を丁寧に紡いだ文章で知られる森下典子さん。実は彼女の「食」にまつわる本がずっと気になっていたこともあり、手に取ったのがこの『いとしいたべもの』(文春文庫)です。オムライス、サッポロ一番みそラーメン、水羊羹、そしてカレーパン。この本には、読んだ途端、口中に広がる思い出の数々が、けっして饒舌になりすぎず的確な描写で綴られています。

 たとえばカレーの章。最近は野菜カレーにハマっているという森下さんが、ハウス「バーモントカレー」にまつわる子どもの頃の思い出にタイムスリップ。友達の家でご馳走になった時に入っていた、ほろほろ柔らかく煮込んだ牛肉の塊に驚きます。森下家では薄い豚肉のカレーが定番だったのです。帰宅後、「うちも、ああいうカレーを作って!」と母にねだるシーン。思わず「そうそう!」と頷きました。僕も、友達の家でご馳走になったあと母さんにおねだりしました。その昔、たしかにカレーの具には、家庭の個性や経済状態が如実に反映されていたんです。

 カレーになんと「スルメ」を入れるのが定番だったという青森出身のお友達の話もおもしろい。大人になって初めて肉のカレーを食べ、「このカレーは変わってるな。スルメが入っていない……と思った」なんてエピソードも記されています。

 それから、この本を読んであらためて気づかされることは、「食」にとって何より大切なのは「匂い」であるということ。伊豆諸島のソウルフード「くさや」を森下さんはこよなく愛し、その強烈で溶け落ちるような魅力を「世界で最もセクシーな男」と呼ばれる俳優、アントニオ・バンデラスに例えます。青ムロアジやトビウオの開きを発酵した液体に漬け込み乾燥させた「くさや」。僕も八丈島に行った際、くさや工場を訪ねました。猛烈な匂いです。でも、匂いの強い食べ物は、乗り越えた先に新たな喜びがあるというもの。くさやも、食べれば「匂いの向こう側」にたどり着けるはず!と、滞在中に3回試したのですが……。この世のものとは思えない匂いに、残念ながらどうしても打ち勝てず、惨敗して帰ってきました。

 「匂い」と言えば、横浜のディープな一角に、地元の中国人しか行かない羊料理の専門店があります。羊の内臓の串焼きなども出すようなお店です。店内はかなり猛烈な匂い。色々な部位を食べたなかでも、いちばん臭いのって何だと思います? 実は肝臓なんですね。血をきれいにする臓器である肝臓の臭さたるや…レアに焼かれたそれは、メチャクチャきつい体臭が凝縮されたような匂いでした。あれは壮絶だったなあ……。それでも食べました。以降、エレベーターで体臭の強い人が同乗するたび、僕はあの羊肉を思い出します。そしてあの肉が食べたくなる…味覚や嗅覚というのは、人間の記憶や感情の根底に直接響くんですね。

 40度近い高熱を出して3日間寝込んだ森下さんが、母親のつくってくれた「おかゆ」をようやく頬張るシーンも胸を打ちます。数回咀嚼し、唾液がピュッと出て、たちまち味覚が目を覚ます。米粒にまつわるでんぷんが、とろり。驚くほどに甘い。そして森下さんはこう記します。

耳の下のキュンという痛みに堪えた。

 この感じ、とってもよく分かるすてきな表現です。

 崎陽軒のシウマイ弁当を描いた「幸せの配分」は僕自身の記憶にも繋がりました。森下さんも僕もハマっ子(横浜生まれ)。新幹線の旅のお供といえば崎陽軒です。ところが昨今、匂いが強いものは車内では敬遠される傾向があるとか。大阪の或るたこ焼きには「新幹線車内、駅構内でのお召し上がりはご遠慮を」という但し書きが付いているものもあるそうです。

 車内の匂いや音、赤ん坊の泣き声。公共スペースが「まあまあ、お互いしょうがないでしょ」って歩み寄る場所でなくなっているのが残念。想像したくもありませんが、万一、お弁当が車内で食べられなくなってしまったら……、なんとも寂しいかぎり。

 崎陽軒のシウマイ弁当には、鮪の照り焼き、鶏肉のから揚げ、賽の目の筍煮、千切り生姜と切り昆布の佃煮が所狭しと並んでいます。僕のマイルールは、おかず一口に、俵のご飯を半分!焼売や唐揚げ、昆布の佃煮と千切り生姜が丁度いい塩梅で美味しく頂けます。佃煮と生姜はもう本当に大好物!折詰の食べ方の中に人生観が現れる…そう言っても過言ではありません。

 つい熱く語ってしまいましたが、じつは森下さん、料理が苦手だそうです。「七歳の得意料理」では、母の留守中にやってきた叔母のためにつくった、ポテトサラダのエピソードが切ない。おばさんが美味しい美味しいと食べてくれ、料理する喜びを知った幼い彼女に、母がかけた言葉は――。僕も余裕があるときは、子どもに「お手伝いする?」と言ってコミュニケーションをとるようにしているけれど、忙しかったり、料理が佳境に差し掛かると「向こう行って!」なんて言ってしまったりする。お母さん、森下さん、どちらの気持ちも分かって、だからこそ切ない。

 僕は今、料理番組を担当させてもらっています。料理の原点は小3ぐらいの頃。たまたま母が不在の時に弟が体調を崩し、僕が雑炊をつくってあげました。初めての冒険にワクワクしたことを覚えています。弟は喜んで食べてくれました。こんな経験が積み重なり、料理を好きになっていったのかもしれません。最近、家族につくったのは、春菊と鶏むね肉のサラダ。塩味の麻婆豆腐。鶏だんごと茸、ゴボウのお鍋。誰かのためにつくるからこそ料理は楽しいんだな。正直、面倒になる時もあるけど、自分のために作るのは侘しい。

 花咲き乱れる季節はもうすぐ。元気に生きていくには「食」こそ根本です。この本の虜になったあなたには、小川糸さんの小説「食堂かたつむり」などいかがでしょう?イタリアの文学賞の料理部門賞を受賞した1冊です。料理研究家・辰巳芳子さんの随筆もお薦め。辰巳さんとはご一緒にお仕事をさせていただき、料理への心構えや所作について教えていただきました。背筋がびしっと伸びるような、辰巳さんの真摯な言葉の数々。ぜひご賞味あれ。(構成・加賀直樹)