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偶然と他力に導かれて みすず書房・市原加奈子さん

 入社して2年目か、「おたくは高踏的な本ばかり出している出版社でしょ」と思われがちなことに「てやんでい」的な反発心も湧いてきた頃、原作者アラン・ムーアのインタビューをウェブで偶然目にした。漫画の可能性を日本の作家とは全く違う方向に掘り下げている英国人で、「読者は一コマからでも途方もない量の象徴を読み取れる」という漫画観にそそられて本作の原著を読み、魔術的ハードボイルドと呼びたい作風にも一目惚(ぼ)れしてしまった。

 とはいえ漫画の出版は私も勤め先も初めてなので、翻訳を企画するにも数年及び腰でいたら、今度は「特殊翻訳家」の柳下毅一郎(やなしたきいちろう)さんがある雑誌で、手がけたい作品にこれを挙げているのに遭遇した。天の助け! この人でなければ成立しなかっただろう。本作りは偶然と他力に導かれている。

 でも偶然と必然はときに同一に思える。本作は「切り裂きジャック」のミステリーを借りて、そのことを精巧に描いた作品だ。舞台は19世紀末。ロンドンの貧民街に、娼婦(しょうふ)たちを切り刻む謎の殺人鬼が現れる。

 貧富の格差を糧に爛熟(らんじゅく)した王朝が自壊し始め、末端では奇怪な予感が次々現実になる。その権化たる殺人鬼の意識が時空を超え、現代人を垣間見てこう嘆く。「そなたらは先行する者すべての総和なのだ……自身の奥深く眠る傷にさえ無関心に育った文化よ」。前世の記憶のように、遠い物語が現在と共鳴している。=朝日新聞2019年5月8日掲載