「小早川隆景・秀秋」書評 親子の虚像はなぜ生まれたか
ISBN: 9784623085972
発売⽇: 2019/03/14
サイズ: 20cm/331,13p
小早川隆景・秀秋 消え候わんとて、光増すと申す [著]光成準治
戦国大名毛利元就(もとなり)の三男に生まれた隆景は小早川家に養子入りし、元就死後は甥の輝元(元就の孫)を補佐した。隆景には子がいなかったので、豊臣秀吉の縁者で秀吉の養子だった秀秋をもらい受け、跡継ぎとした。小早川秀秋は慶長5(1600)年の関ケ原合戦において石田三成ら西軍を裏切り、徳川家康の天下取りに貢献した。しかしその2年後、21歳の若さで亡くなってしまう。
戦国ファンにはおなじみの小早川隆景・秀秋親子だが、通俗的なイメージで語られてきた点は否めない。本書は2人の実像に迫りつつ、なぜ虚像が生まれたのかを解明した力作だ。
小早川隆景は優れた武将だったが、後世の軍記類が絶賛するほど完全無欠の智将ではなかった。対織田戦争では織田方の実力を過小評価し窮地に陥った(信長の死によって救われた)。秀吉と柴田勝家の争いでは、どちらが勝つか判断できず両天秤にかけたため、勝家敗死後、秀吉との交渉で苦汁をなめた。
小早川隆景が美化されたのは毛利氏の事情に起因すると著者は指摘する。三成に味方し家康と敵対してしまった毛利氏は、毛利氏の外交僧で三成と親しかった安国寺恵瓊(えけい)に全ての罪を押しつけた。そして奸臣恵瓊との対比で、隆景を名補佐役として持ち上げたのだ。
逆に秀秋は実態以上に貶められてきた。隆景の急死、朝鮮渡海命令、筑前・筑後から越前・加賀への移封、秀吉の死、朝鮮からの撤兵に伴う筑前・筑後への復帰など、時々刻々と変化する情勢に秀秋は翻弄された。関ケ原合戦時点での秀秋の家臣団は、多様な出自を持つ家臣をあちこちから寄せ集めたもので、秀秋が指導力を発揮することは困難だった。関ケ原後、岡山に転封となった秀秋は家臣団を再編し藩政改革を進めたが、志半ばで病没し、悪評だけが残った。
近年盛んな関ケ原論争に対する新見解も面白い。戦国ファンの必読書だ。
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みつなり・じゅんじ 1963年生まれ。九州大大学院特別研究者。著書に『毛利輝元』『九州の関ケ原』など。