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「湖」書評 暴力が連鎖する世界を生き抜く

評者: 都甲幸治 / 朝⽇新聞掲載:2019年06月15日
著者:阿部賢一 出版社:河出書房新社 ジャンル:欧米の小説・文学

ISBN: 9784309207674
発売⽇: 2019/04/22
サイズ: 20cm/211p

湖 [著]ビアンカ・ベロヴァー

 暴力に満ちた世界に、子供が一人で投げ出される。そのとき、生きることの苦痛と美しさが輝く。十代のナミは独りぼっちだ。両親はどこにいるのか分からず、彼を湖の側で育ててくれた祖父は漁の事故で死に、骨折した祖母は生きながら小舟で湖に流される。湖の精霊をなだめるためというのが表向きの理由だ。
 農場長に家を奪われ、鶏小屋に住むことを余儀なくされたナミが村を出て行くと決意したのは、銃を持ったロシア兵たちに恋人のザザが森で襲われたからだった。彼はタンカーに乗り込み、首都に向かう。そこに行けば、少ない手がかりをたぐり寄せて母親に再会できるかもしれない。だが運命は彼を翻弄する。
 1970年生まれのベロヴァーは本書でEU文学賞を獲得した。クンデラやフラバルに続く世代として、今や彼女は現代チェコを代表する書き手である。『湖』で描かれた世界は暗い。旧ソ連の一部だろうか、ここではロシア人たちが圧倒的な支配者として君臨している。たとえ彼らが罪を犯しても、地元の警察や裁判所は処罰できない。
 法の支配がない世界で、幅を利かすのは強さの論理だ。男たちは女性や子供を殴り、動物を撃ち殺す。農場長がナミに友好的な態度を示すのは、肉体労働で身につけた彼の屈強な筋肉を目にしたあとだ。暴力は暴力を生む。こんな不毛な連鎖を抜け出す方法はないのか。ナミを助けてくれた老婦人は言う。「いい、つねに逃げる用意を、戦う用意をしておかないとだめなの」。だがそれだけでは足りない。
 印象的なのは祖母の姿だ。床板の隙間にすみ着いた蛇にミルクをやりながら彼女は言う。「家に蛇がいると幸せになるのよ」。自分のできる範囲で、優しさと慈しみの場所を作ること。蜂蜜を入れた甘いお茶とともに蘇る、幼い頃の愛の記憶は、ナミを内側から支え続ける。チェコの人々がくぐり抜けてきた歴史の過酷さと、彼らの強さが伝わる作品だ。
    ◇
 Bianca Bellova 1970年プラハ生まれ。作家。翻訳家・通訳。本作でEU文学賞。本作が初の邦訳作品。