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全世代に「劇画花火を」 急逝のマンガ原作者・小池一夫の願い

小池一夫原作作品の数々。作画を担当した小島剛夕や池上遼一など、数々の「名コンビ」も生まれた=京都国際マンガミュージアム提供

ブームから豊かな文化的土壌へ

 「二五歳以下を“劇画世代”というのだそうだ」。1970年2月の「サンデー毎日」に掲載された「ルポルタージュ 劇画繁栄」は、このような書き出しで始まっている。記事の冒頭でとりあげられるのは、新宿の書店にマンガ雑誌を求めて立ち寄る当時の若者たちの姿だ。

 「午後の客層は二十歳前後の若者。学校帰りの高校生、大学生。そして髪を伸ばしたフーテン・スタイルの芸術青年らしき男たち。(中略)夕方から仕事を終えたサラリーマンふうの人が立ち寄りはじめる。学生たちが買うものに加えて『漫画サンデー』や『漫画アクション』など大人向きのマンガ誌がよく出ていく。『漫画アクション』といっても、内容はほとんど劇画だ」

 「マンガ」が幅広い年代へと浸透した現在では、最後の一文には注釈が必要だろう。「漫画」という言葉は、この時代はまだ従来の大人向け風刺漫画や児童漫画の領域と結びついて用いられてもいた。それに対し、50年代末に貸本というメディアの中で生まれた「劇画」という言葉は、60年代には週刊少年誌・青年誌といった新たなメディアと共に拡大し、70年代を迎える頃にはこうした若者たちにとっての新たな視覚表現のジャンルを指すものとなり、大衆的な娯楽へ成長していく。

4月に死去したモンキー・パンチと小池一夫、両作家をしのぶ京都国際マンガミュージアム(京都市中京区)の追悼コーナー(7月初めまで)。両氏はともに「週刊漫画アクション」誌上で活躍した「戦友」でもあった=京都国際マンガミュージアム提供

 こうした50年代末から70年代にかけての「劇画ブーム」報道の渦中で、しばしば人気作家はグラビア付きの特集記事で雑誌にとりあげられた。中でも、その勢いを象徴する人物として扱われたのが、今年4月に惜しくも急逝したマンガ原作者・小池一夫だ。70年代に漫画アクションで連載した「子連れ狼(おおかみ)」(作画・小島剛夕〈ごうせき〉)を筆頭に数々のヒット作を生み、その執筆量は原稿用紙にして月産千枚以上とも報じられた。「子連れ狼」のような人気作は次々と映像化もされ、話題をさらった。

 だが、当時の小池自身が書いた文章(73年11月の「サンデー毎日」)には、「ブーム」と騒ぐマスメディアへの違和感が滲(にじ)んでもいた。

 「小説が売れるとベストセラーという表現が使われる。劇画が売れるとブームと呼ばれる。決してベストセラーとは冠せられない。(中略)ブームとはすぐに消え去る一時期の泡沫(ほうまつ)現象だから、劇画などそれに類したものとでもいうのであろう」

 「五年後には十年後には、すべての人々が美しいといってくれる劇画花火を」打ち上げたい、とつづるその言葉には、分かりやすい若者世代論にはめ込もうとするマスメディアの報道に対し、世代を超えて読み継がれる、小説や映画と並ぶ表現様式としての劇画の可能性を提示したいという思いがこもっている。

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 こうした小池の姿勢は、「劇画」を発展させる後進の育成のため設立した「劇画村塾」という後の取り組みにも通底している。また、大衆的な娯楽の表現様式として「劇画」の可能性を考え続けた小池の意識はやがて、表現の核となるものは何より「キャラクター」である、という今日のマンガのありように通じる視点へと至ることにもなる。

 「劇画花火」を打ち上げたいと小池が語った70年代から遠く離れて、今日、「劇画」という言葉にかつてのような若者世代と結びついた特別な意味合いは薄い。だが小池の遺(のこ)した数々の作品をはじめとして、この時代とその前後に描かれたマンガ=劇画はひとつの豊かな文化的な土壌となっている。それらは、新たな若者を引き寄せて今なお「再発見」され続けており、国境を超えて広い世界の読み手にも刺激を与えてきた。

 晩年はSNSで自身よりはるかに若い人々とも積極的に交流していた小池にとって、ひとときの「ブーム」を乗り越えたがゆえに「劇画」がたどったこの道のりは、どのように顧みられるものだったのだろうか。