音楽家・坂本龍一氏の父が編集者だったと聞けば、意外に思う人もいるのではないか。三島由紀夫『仮面の告白』、野間宏『真空地帯』など幾多の名作・大作を世に送り出した人物である。大正10(1921)年生まれで、学徒動員により出征し、復員後25歳で河出書房に入社。60歳で引退するまで出版に携わった。
『伝説の編集者』は元部下だった女性編集者の手に成る伝記である。カバーに写る『文藝』編集長時代の坂本一亀(かずき)は、細面で眼光鋭く、古武士のごとき風貌(ふうぼう)。実際、「今日中ニコノ原稿ヲ読ム!」「読ンダラ感想ヲ付ケテ出ス!」などと軍人風の口調で命じる、強面(こわもて)の上司だったようだ。
描かれる挿話から作家に対しても妥協せぬ厳しさがうかがえるが、そればかりと思うと間違いで、ロマンチストで、私心を持たず、涙もろくもあったという。編集者の一つの理想と言っては言い過ぎだろうか。
本書を読んだ頃はもはや駆け出しではなかったが、それでも感銘を受けた。坂本一亀ほど多くの作家に書き記され、語られた人は稀(まれ)で、そうした回想が随所に紹介され、興味が尽きなかった。時代が違うといえ、ここまで編集に情熱を傾けた先人がいたのかと、身が引き締まる思いがした。
努力家だった坂本は、寸暇を惜しんで同人誌を読みふけるなど、新人の発掘に余念がなかったという。遠く仰ぎ見る我が身にできることがあるとすれば、それは、可能性を秘めた書き手に作品発表の機会を提供し続けること、その努力を怠らないことだと思う。=朝日新聞2019年7月24日掲載