(1)車谷長吉著『鹽壺(しおつぼ)の匙(さじ)』(新潮社、1992年刊) 死滅したかと思われていた「私小説」を平成の世に蘇(よみがえ)らせた作品集。ペン先をおのれの臓腑(ぞうふ)に突き立て、ほとばしる血糊(ちのり)で書き上げた「生前の遺稿」は、その毒で都会人の心胆を戦慄(せんりつ)せしめずにはおかない。
(2)山本義隆著『磁力と重力の発見』全3巻(みすず書房、03年刊) 魔術から科学への歴史的転換期を「磁力」という一本の補助線を引くことで見事に浮き彫りにした雄渾(ゆうこん)な科学史。近代物理学の形成過程を遠隔力の発見という斬新な視角から描き直す。
(3)鷲田清一著『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』(TBSブリタニカ、99年刊) 哲学を看護や介護など困難な社会の現場へと連れ出し、「臨床哲学」という新たな領域を切り開いた力作。哲学とはソクラテス以来「魂のケア」の営みであったことを思い起こさせてくれる。
(4)木村敏(びん)著『偶然性の精神病理』(岩波書店、94年刊) 精神医学と哲学とを架橋し、エビデンスに拝跪(はいき)する現代医学のあり方に一石を投じた問題作。自己と世界が出会う接触点、すなわち自己の居場所は「あいだ」にあるというテーゼを掲げて生命的現実の根源に迫る。
(5)田川建三訳著『新約聖書 訳と註(ちゅう)』全7巻(作品社、07年~17年刊) 新約聖書を神の言葉を記した信仰の書ではなく、「人間が書いた文章」すなわち歴史資料として解読した画期的新訳。綿密な注釈はイエスという男を一人の類(たぐい)まれな人間として甦(よみがえ)らせる。=朝日新聞2019年7月31日掲載