1. HOME
  2. コラム
  3. 大好きだった
  4. 相沢沙呼さんがミステリの魅力に目覚めた「古畑任三郎」シリーズ ロジックこそが真の醍醐味だと気づかせてくれた

相沢沙呼さんがミステリの魅力に目覚めた「古畑任三郎」シリーズ ロジックこそが真の醍醐味だと気づかせてくれた

 十代の半ばから、僕は小説を書いていた。

 自分は作家になるだろう、と根拠もなくそう信じ切っていたけれど、まさかミステリ作家になるだなんて、その頃の僕は欠片も想像していなかった。推理小説を夢中になって読み始めたのは大学生になってからくらいで、どちらかといえば遅い方だった。それまではライトノベルに親しんでいたから、それほど多くのミステリに触れて育ったわけではない。今でこそ当たり前のように推理小説を書いているけれど、では、その魅力に囚われるようになった切っ掛けはなんだろうと考えると、それは映像作品にあるような気がする。入り口は推理小説ではなかったのだ。

 記憶にある限り、僕が少年だったころに初めて触れたミステリ作品というのは、堂本剛版「金田一少年の事件簿」のテレビドラマシリーズだったように思う。なかなかにショッキングな内容で、子ども心に怖く感じるシーンも多々あったのだけれど、不思議と目が離せなかった。だが、より自分にミステリとしての魅力を感じさせた作品――自分をミステリ沼へと引きずり込んだ作品は、その数年後に再放送で目にした「古畑任三郎」のテレビシリーズだった。

 今でこそ倒叙モノミステリの傑作だと思うが、初めてこの作品を目にした当時の僕は、混乱していたように思う。なにせ毎回、犯人が最初から分かってしまうのだから。だというのに、そう、だというのに――、めちゃくちゃ面白いし、惹きつけられる。

 そう、ミステリの楽しみはなにも犯人当てだけにあるのではない。子どもだった僕は、それに気が付いて衝撃を受けた。犯人と探偵役との心理的な駆け引きや張り巡らされた伏線、それらを結びつけて証拠へと導くロジックこそが、ミステリにおける真の醍醐味なのだと――、これは、そう自分に気付かせてくれた作品だったのだ。僕のミステリのスタンスには、伏線や論理さえ美しければ、犯人を当てることなんてどうでもいい、という部分がある。それは犯人が不在であることの多い「日常の謎」を書く上でも重視される部分であり、僕のミステリの方向性の一端は、倒叙モノのこの特性から生まれているような気がする。そう、犯人当てがどうでもいいなら、いっそ最初から犯人を明かすことで生まれるものだって数多くあるだろう。

 もちろん、このときはまだ「ミステリって面白い、すごい」という興奮を抱いてこそすれ、自分で書こうとは微塵も考えていなかった。ただ、今にして振り返ってみると、この作品から得られたものは多かったんだなと感慨深い。なにせ、探偵役のキャラクターが鮮烈で強烈だ。古畑任三郎。変な名前だし、ぜんぜん凄そうには見えないし、どうでもよさそうな会話ばかりするし、それなのに、たまらなく魅力的だ。僕がミステリにおける犯人役だったら、まさかこんな頼りなさそうなやつが探偵役だとは思わない。ときどき鋭い質問が来るけれど、それでも油断するに決まっている。そして、推理を語り犯人を追い詰めるときの、あの独特の話し方、手癖……、色々とたまらない。

 他にも、緊張感を煽りつつも、息抜きのようにコメディを織り交ぜていく演出や、印象に残るBGMやエンドロールなど、作家としての視線で作品を分析していたわけではないが、「古畑任三郎」の魅力はそんなものを超越して、少年だった僕の心に突き刺さっていた。当時、再放送を録画して何度も観返していた自分を褒めてあげたい。僕はそこからミステリの魅力へと沈んでいき、多くの推理小説を読むようになった。本格ミステリの世界で、様々な探偵キャラクターに触れるようになってからも、いつか自分も古畑任三郎のような、魅力的な探偵役を描きたいと、常々考えていた。

 最近、ある作品を書く際に観返した機会があったのだけれど、やっぱりこれは何度観ても面白くてたまらないシリーズだ。