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村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」 私も走る、書き手とともに 岩波書店・小田野耕明さん

 編集という仕事は掴(つか)み所がない。自分は何のプロなのか、能力をどう高めたらよいのか、そんなことを思い悩んでいた頃、小林勇(いさむ)、小尾俊人(おびとしと)、J・エプスタインといった昔の大編集者の本をよく読んだ。神話的な巨人たちを真似(まね)ようにも、自分にはできっこない。

 村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んだのは、そんな時だった。「小説をしっかり書くために身体能力を整え、向上させる」べく、村上は走り続ける。毎年フルマラソンにも出場する。

 才能に恵まれた巨人を除けば、多くの作家は、物語の素材が埋もれている地中深くに穴を掘り進めるため、集中力と持続力の鍛錬を自分に課すという。村上の場合、それが「道路を毎朝走ること」だった。彼のような傑出した才能の持ち主でさえ、これほど地道な努力を続けているのだ。

 走ることは目的を持って生きることの助けになる、と村上は言う。与えられた個々人の限界の中で、それはまた生きることの、そして書くことのメタファーでもある、と。

 10代から愛読してきたこの作家には、仕事への姿勢まで教えられた。本を読み、人に会う。原稿を読み、辞書を引く。この地味で時に苦しい作業(もちろん喜びも多い)を持続できる心身を鍛える。私の仕事はこれを忍耐強く重ねること。書き手が掘り進める営みに伴走するこの作業から、これまでとは違う世界を開き、読む人の精神をのびやかにする本が生まれるはずだ。さあ、今日も走ろう(メタファーである)。=朝日新聞2019年11月27日掲載