一同が見守る中、弘基はザクザクとシュトレンをスライスしはじめた。見た目は以前のシュトレンと大差ないように感じられる。「……例の食材、何かわかったの?」希実の問いかけに、弘基は不敵な笑みを浮かべる。そうして切ったシュトレンを一同に差し出し、もちろんと言ってのけた。「愛を少々、だろ? ちゃんとぶち込んどいたぜ」(『真夜中のパン屋さん 午前1時の恋泥棒』より)
12月の「食いしんぼん」は、2回にわたりクリスマス特別ver.でお送りします☆ 前半は、2013年に滝沢秀明さん主演でドラマ化もされた『真夜中のパン屋さん』(通称「まよパン」)をご紹介します。夜中の23時から明け方の5時まで営業しているパン屋さん「ブランジェリークレバヤシ」は、ちょっぴり風変りなオーナーの暮林(愛称はクレさん)と、腕のいいブランジェ・弘基の二人だけで営む小さなお店です。ある晩、女子高生の希実は、突然失踪した母の置き手紙を頼りに、母の腹違いの姉でクレさんの妻・美和子が営むという「ブランジェリークレバヤシ」を訪ねると美和子は既に亡くなっていました。その日から3人の奇妙な共同生活が始まります。パン屋さんが舞台なだけに、毎回様々なパンが登場するのですが、中でも、ドイツのクリスマスでは定番の菓子パン「シュトレン」に、美和子さんが少しだけ加えたものが「少々の愛」でした。著者の大沼紀子さんに、シュトレンにまつわるお話やパンの思い出などを伺いました。
当初はレストランが舞台のはずが
——私は朝食にパンを食べたいなと思うことが多いので、「夜中から朝方に営業しているパン屋さん(イケメン店員希望!)が近所にあったらいいのになぁ」と、今でも切に願っているのですが(笑)。真夜中に営業するパン屋さんを作品の舞台にしたきっかけを教えてください。
当時、担当編集の方から「レストランを舞台にした小説を書いてみてはどうか」と提案されたのがきっかけです。そこからレストランものの小説を考えてみたんですが、さっぱり思い浮かばず(笑)。どうしたものかと考えあぐねながら真夜中の街を散歩しているなかで「こういう時にふらっと立ち寄れるイートイン付きのパン屋さんがあったらなぁ」と切実に思い「レストランじゃなく、パン屋さんにしよう!」と舞台を変更して『真夜中のパン屋さん』を書かせていただくことになりました。
——大沼さんは実際にパン作りをされたことはありますか?
元々パンは好きなので、昔から時々作っていました。もっぱら、普通の手こねパンでしたが、こねた生地が発酵して膨らんだ様子を見るのが好きでした。膨らんだ生地ってとってもかわいいんですよ。焼きあがってくるパンの匂いをかぐと、少々ブルーな状況にあっても、たいてい幸せな気持ちになれます。
——パン好きだった美和子さんを通して、クレさんと弘基、二人の男性の人生がパンと関わっていきますが、ブランジェ(パン職人)という職業に対して、どんな印象をお持ちですか?
本作を書くにあたり、数人のブランジェの方に取材をしたのですが、みなさんパンに人生を捧げていらっしゃる方ばかりで、尊敬の念を抱かずにいられませんでした。それぞれ、ちょっと変わったところもおありなんですが(笑)。本当に、惜しみない愛情をパンに注いでいらして。何かにそんなふうに愛情を注げる人に、悪い人はいないと思うんです。そういう意味でも、登場人物をブランジェに出来たことで、こちらが意図しなくても、勝手に「ちょっと癖の強い、良い人」になってくれたのはラッキーでした。個人的に癖が強めな人も好きなので、ブランジェを書いているのも楽しかったです。
——パンの魅力って何でしょう。
ブランジェの方によると、パンは生きもののような食べ物で、気温や湿度で出来上がりが違ってくるそうです。なので、その日その日で様子を見ながら配合を調整したり、手の入れ方を変えたりするとうかがいました。みなさん「そういう手のかかるところがかわいい」と口々におっしゃっていましたね。自分の子どもみたいだって言う方もいたくらい。パンというのは、とにかくかわいい存在らしいです。
——私はパン屋さんに一歩入った瞬間の香りやお店の雰囲気も含めて、他の飲食店よりも「あったかい空間」だなと感じるのですが、大沼さんの印象はいかがですか?
ふんわりと柔らかで、温かいものが常にショーケースに並んでいるのって、パン屋さんだけじゃないかと思うんです。ピリピリした気分で入店しても、あったかそうなパンたちに囲まれると、少し心が緩むっていうか、そういう感覚は確実にありますね。
——本シリーズには様々な種類のパンが登場しますが、中でも2作目(「午前1時の恋泥棒」)に出てくる「シュトレン」は、少しずつスライスして食べながらクリスマスを待ちわびるドイツの菓子パンです。レーズンやナッツ、数種類のスパイスのほかに美和子さんが加えたのが「少々の愛」! それは、特別な効用や言い伝えのあるスパイス(それが何かは本作をご覧ください)なのですが、ちょっぴり意味深なスパイスをシュトレンに仕込むなんてステキですね♡
シュトレンは、焼きあがってからフルーツやスパイスが生地になじんでいく「成長パン」だと思っているんです。今日はどんな風に変わってるのかな?と、日々味の変化を楽しんでいける、一つで何度もおいしいパンとも言える気がします。パン屋さんによって味もだいぶ違うので、私は特定のお店は決めずに、毎年新規のパン屋さんでシュトレンを購入しています。最初はピンとこない味でも、途中から段々と好みな味になっていくこともあるので、食べていてすごく面白いんです。あと、いくらおいしくても全部食べきることはせず、徐々に食べていかなくてはならないという、精神鍛錬のパンでもあるな、とも思います(笑)。私は今、クミン(スパイスの一種)にハマっているので、絶妙な塩梅で、ほのかにクミンの香りがするようなシュトレンが食べてみたいですね。
——1作目の「だって、パンは平等な食べものなんだもの。道端でも公園でも、どこでだって食べられる。囲むべき食卓がなくても、誰が隣にいなくても、平気でかじりつける。おいしいパンは、誰にでも平等においしいだけなんだもの」(『午前0時のレシピ』)という美和子さんのセリフが印象的です。
昔のマンガには、遅刻しそうな学生さんが食パンを口にくわえて登校するシーンって時々あったように思うんです。それくらい、パンは「どういう状況下でも口に運べるもの」っていう認識が私にはあって、ある種インスタントな食べ物のように思えるんですね。誰かが、特定の誰かのために、思いを込めて作ったものじゃない。だからこそ、口に運びやすい。道端でも公園でも、泣きたい時やつらい時、どうしようもなく一人ぼっちの時も、おいしいパンはただおいしくて、どこにいても何をしていても、気負わずに口に運べてしまう。それってすごく平等なことだよなと思って、そんなセリフが出てきたように記憶しています。
——大沼さんが今まで食べた中で、一番印象的だったパン、またはパン屋さんを教えてください。
子どもの頃に通っていた地元のパン屋さんの卵サンドですね。卵とキュウリのシンプルな卵サンドでした。早朝から開いているパン屋さんで、学校にお弁当を持っていかなくてはいけない日なんかに、よくそのパン屋さんにお世話になっていたんです。おばあさんが店番で、おじいさんが厨房でパンを作っていらっしゃいました。朝の6時半とか、まだ薄暗いような時間にお店に行っても、おばあさんはいつも笑顔で迎え入れてくれて。そのことに、すごくホッとしたのをよく覚えています。大人になってから「あのパン屋さんがあってよかったな。だいぶ救われていたなぁ」と、切実に思うようになりました。