現地に行かないと分からないことがあるものだと、つくづく思う。その土地の匂い、風、雰囲気もそうだし、食も歴史も文化も、その場で新しく知識を得たり、気づきがあったりする。
沖縄の石垣島に行った時のこと。本島には行ったことがあったけれど、八重山諸島に降り立つのはその時が初めてだった。石垣島は、暖かくて、ゆったりとした時間が流れていて。初めは私の「想像通り」の島だった。
石垣島の中心地である730交差点周辺の土産物店をぶらぶらしつつ(ちなみに「730」の由来は、沖縄が本土復帰をした6年後の1978年7月30日に、県下で一斉に交通方法の変更が行われたことだという)、ふと思い立ち、車で5、6分のところにある八重山平和祈念館に行くことにした。
1999年に開館した平和祈念館。「戦争マラリア」の史実を伝えるために建てられたという。戦争マラリアとは、太平洋戦争末期に、八重山郡の住民が日本軍の命令によりマラリア有病地帯へ強制移動させられ、多くの方がマラリアに罹り、亡くなったことをいう。八重山平和祈念館の資料によれば、地域の全人口3万1701人のうち、罹患者は1万6884人、3647人が亡くなったそうだ。
恥ずかしながら、これほど多くの人が戦争マラリアで亡くなり、その後もマラリアの撲滅に向けて努力を重ねた人がいたことを私は知らなかった。
祈念館を訪れたことを契機に、町の本屋で戦争マラリアに関する本を探した。鉄は熱いうちに打て、である。郷土史に関する本を漁るなら、やはり地元の本屋に行くのが一番いい。沖縄県に関する本が充実していた「タウンパルやまだ」という書店で見つけたのが、南風原英育さんの『マラリア撲滅への挑戦者たち』(南山舎)という本である。マラリア防疫監史の黒島直規らの功績や、戦後のマラリア対策についてなどが書かれている。
マラリア惨禍の詳細は、日が経つにつれ、つぎつぎと伝わってきた。空襲や艦砲射撃などの死者は、八重山全島で住民一七八人、軍人七〇人。これに対して、マラリアで死亡したのは三六四七人。この数字は、爆撃等によるいわゆる戦争犠牲者の二〇倍以上にもなり“戦争マラリア”という名のもう一つの戦争が、これらの島々にはあったのである。(87ページ)
本の中には、波照間島から西表島に強制疎開させられ、マラリアの犠牲となって亡くなった学童らを慰霊する碑の紹介もあった。西表島の南風見田地区の海岸にある慰霊碑には「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字があるという。キシナというのは、帰島を直訴した識名信升校長の名前だ。
この本をきっかけに、この慰霊碑を訪れてもみた。確かにそこに「忘勿石」はあったが、海岸線に近いところにあって波にやられたのか、ほとんどが壊れていた。あまり人がこない場所なのだろうか。早く修復されるといいのだけれど。
木々をわたる風は、あのころの忌まわしい歳月を消し去ったかのように、南からさわやかに吹いていた。(151ページ)
本のエピローグにはこんな言葉が書かれていた。この旅で感じたことをまとめたような一文だった。さわやかな風を感じるだけの旅もいいが、その風が持つ意味や想いなんかも想像できる旅人でありたい。そんなことを思った。
※今年の春に、第一子を出産予定なので、どこまでこの連載を続けられるか分からないのですが、できる限り更新できたらいいなと思っています。今年もいい旅をして、いい本と出会えたら。どうぞよろしくお願いします。