昨年10月にイギリスに行ったときのことだ。ロンドンの書店で堆(うずたか)く積み上げられていたのは、オーシャン・ヴオン(Ocean Vuong)という1988年生まれのベトナム系アメリカ人詩人のデビュー小説だった。
数々の絶賛の言葉が読めたが、イギリスの若手作家のなかでとりわけ評価の高いマックス・ポーターが、「いまやサイゴン生まれの若きゲイ詩人が〈偉大なるアメリカ小説〉を書くのは当たり前だと思える」と讃辞(さんじ)を寄せていたのが印象に残った。
『地上で僕たちは一瞬だけ輝かしい』とでも訳せるタイトルのこの小説は、英語が読めない母に向けて息子(作者)が、英語で書く手紙という形式を取り、ベトナム戦争を経験した祖母、彼女がアメリカ兵とのあいだにもうけた娘である母との、アメリカ東海岸の地方都市での慎(つつ)ましい生活が回想され、祖母と母の複雑な過去が語られる。
そして、たばこ農園でのアルバイト(労働者は中南米からの移民ばかりだ)で出会った少し年上の貧しい白人少年との性体験、友愛が、みずみずしい文体で描かれる。語られる内容によって言葉のリズムや速度が変化するところも素晴らしい。
語り手と恋人の少年が自転車で夜の街を駆け抜け郊外の高台に至る場面は、どこにでもありそうな地方都市の風景を心奪う美しさに変える。
だが、人種差別、貧困、DV、そして語り手の大切な友人たちの命を奪うオピオイド(麻薬性鎮痛剤)依存症など、〈私〉を語ることがアメリカという社会の抱える闇をも浮き上がらせることになっている。その意味でこれは〈偉大なるアメリカ小説〉なのだろう。ヴオンの小説は、近々翻訳されると聞いた。日本語で読めるのがとても楽しみである。
ヴオンの本の山を見て、一昨年10月にイギリスに行ったときの記憶が甦(よみがえ)る。チェルトナム文学祭というイギリス最古の文学祭に参加したのだが、そこで日本の小説の英訳が大量に積み上げられているのを目撃したのだ。
村田沙耶香の『コンビニ人間』(文春文庫)である。文学祭には村田氏も招かれていて、僕は入れ違いでの到着だったのだが、静かな田舎町なのに「コンビニ」だらけと言いたくなるほど、日本文学の話になれば、この作品に言及する人が多かった。
昨年10月の訪英の際には、二名の同僚とともに、オックスフォード大学で現代日本文学について話す機会があったが、同大の日本文学の教授もまた、『コンビニ人間』の魅力について熱く語っていた。
1月に訪米し、大学の創作学科で教える若手の作家たちと話した際も、『コンビニ人間』が話題になった。
『コンビニ人間』には、現代日本社会に固有の特殊性が描き出されて、それが日本に興味を持つ海外の読者に訴えかけているのだろうか。
決してそれだけではない。「コンビニ」という「全体」を円滑に機能させる「部品」として生きることに安らぎを見出(みいだ)し、コンビニ的な規範にとことん同化する主人公の姿に、グローバル化した現代世界に生きる誰もが、文化的な差異を超えて〈私〉の姿を認めることができるからだろう。僕たちの誰もが「コンビニ人間」だ。
『コンビニ人間』もそうだが、その後刊行された『地球星人』(新潮社)、『生命式』(河出書房新社)を読むと、面白くて笑えるが背筋も凍る。
人間の「食」、「性」、「生殖」についての僕たちの思考や志向はいかに社会的・歴史的に構築され、人間社会を「正常」に機能させる諸制度はどれほど非理性的な「排除」に支えられているのか。そもそも「人間」と「非人間」の境界はどこにあるのか。誰がその境界を定めるのか。
村田文学についてフーコーやバトラーといった理論的言説を援用しながら論じる研究が今後、大量に生産されても不思議ではない。
だが、村田沙耶香の偉大さは、この現代世界に生きる誰もが一度は感じたはずの社会や他者や自己への疑念をちょっぴり増幅させた不思議な人物たちを通して、誰にでも届くシンプルな言葉で、現実の見え方を変えてくれることなのだ。
小説は、ある特定の社会に生きる人間を具体的に描くものだ。アメリカ社会に生きる〈私〉を介してヴオンは人間感情の普遍性に到達する。しかし村田沙耶香は、たとえ日本が舞台でも、無媒介的に〈人間〉そのものを摑(つか)み取っているように思える。そんなことができる作家を僕はほかに知らない。彼女が書いているのは〈偉大なる世界文学〉だ。=朝日新聞2020年1月29日掲載