シルクロードという言葉は誰の胸にも憧れ、懐かしさ、そして夢を抱かせる。それは月光に輝く荒野を行くラクダの列であり、それに乗って粛々と進む人たちは、私たちが想像できない西方の国の人々。彼らは見たこともない変わった形の壺(つぼ)、色彩豊かな衣服、黒漆を塗った楽器などを次々と運んできたからである。日本とイランの文化交流は、まずはイランからの来訪という形で始まったのである。
お水取りに影響
日本書紀の中には「波斯(はし)」(ペルシア)と呼ばれる国の人々が、物資ばかりでなく「ゾロアスター教の思想」なども運んできたことが記されている。ゾロアスター教とは拝火教という名で知られる火を神聖視する宗教のことである。これら古代日本とペルシアの文化交流の手引になるのが『ペルシア文化渡来考』である。736年には李密翳というペルシア人が来日した記録がある。中国名で表記されているので、遣唐使とともに日本に渡った楽人か工人ではないかという。「お水取りの行事」にもイランの影響があるという。
イランというと革命や動乱をイメージする方もあるかもしれないが、実は古くから詩の国で多くの人は古典詩を暗記している。「死んだら湯灌(ゆかん)は酒でしてくれ、/野の送りにもかけて欲しい美酒(うまざけ)。/もし復活の日ともなり会いたい人は、/酒場の戸口にやって来ておれを待て。」
この詩は11~12世紀に生きた詩人であり科学者でもあったオマル・ハイヤームのルバイヤート(四行詩)である。彼の作品の中には酒を謳(うた)ったものが多い。日本でも葡萄酒(ぶどうしゅ)の産地山梨県には彼の詩に由来するワインがあるという。『ルバイヤート』は永遠の名著である。
話好きな国民性
ペルシア語を学びたい一心で私がテヘラン大学に留学したのは57年前のことである。当時、日本の大学でペルシア語を教えているところはなかった。正規の留学ルートもなく、国王に手紙を書くという大胆な策が功を奏し、イランの国費留学生として招かれたのだった。
大学の学生寮に住み、ペルシア文学や古典、歴史を学んだ。イラン人と接して感服したのは彼らの雄弁さだ。東西文化の十字路にあって、異民族が入り乱れて領有した歴史のせいか、国際感覚は実に堂々としている。異国人を前にしても、好奇心が強く、人間好きで、おしゃべり上手なのだ。彼らと話していると、いつしか心が晴れた。
4年後、帰国すると状況は一変していた。日本は高度成長を遂げ、企業は石油の輸入をはじめ家電や衣料品の輸出で活気づいていた。私の所にも、ペルシア語を習いたい、イラン事情を教えてほしい、という電話がひっきりなしだった。
しかし、1979年にイラン革命が起こりイランは世界から孤立した。いま、米国のトランプ政権はイランとの核合意から離脱するなど、両国の緊張は高まっている。一方、日本はイランを「伝統的な友好国」と位置づけ、仲介の外交を模索する。
最近のイランの実情を知りたい方々には『現代イランの社会と政治』をお薦めする。若い専門家が政治・社会・文化・国際関係等々を明解、簡潔に述べている。彼らはいずれもその道の専門家で、現地を何度も調査して執筆されている。
イランが親日と言われるのは、日本が大国を相手に戦ったからだという。最近では日本のアニメが若者に人気だとか。イランと日本の国交は古く、物流は正倉院にさかのぼる。それなのに私たちはあまりにもイランを知らない。もしかしたらあなたの隣にいるかもしれないイラン人にぜひ声をかけてみて欲しい。私たちがイランを新しい目で見ることがイランの精神的支援になればと願っている。=朝日新聞2020年2月22日掲載