東京・石神井、古い日本家屋での独り住まいに、初めて橋本治さんを訪ねたのは、一九八六年の秋だった。簡素な平屋で、自然な光が庭から射(さ)し入る家だったように記憶している。
橋本さんは『枕草子』の「桃尻語」訳に取り組んでいた。平安時代の女性が身内に向けて一人語りするように記した随筆を、現代の日本語に移すとすれば、いまどきの女子高校生の話体がふさわしい、と考えての仕事だった。
私は、こうした彼の消息を伝え聞き、それがどんな作業になっていくのか、興味と共感を覚えた。だから、自分が編集に関わる雑誌「思想の科学」でインタビューしたいと考え、連絡を取り、訪ねていった。まだ橋本さんが三〇代後半、私は二〇代なかばだった。
甘みのある美味(おい)しい緑茶を、橋本さんは、ゆっくりと淹(い)れてくれた。こんな話が出たのを覚えている。
「法律って、これさえ踏まえとけば、あとは自由にやっていいということでもある。だけど、そのためには法律ってものを知っとかなきゃいけない。それと同じで、言葉を使う人間には、辞書が法律でもあるんだよね」
次に会うとき、彼は新宿副都心から少し南に入った住宅地のマンションに、広いフラットを購入して暮らしていた。前の坂道が、岸田劉生の有名な切通(きりどおし)の絵(「道路と土手と塀」)に描かれている場所だと教えられた。
東京はバブル景気で、都心部の地価やマンション価格が高騰していた。すでに流行作家だったとは言え、あえて相当な無理をしながら買ったらしい。
用件が終わると、日はとうに暮れていた。「何か食べようか」と、先に立って案内してくれたのは、近くの超高層ビルの最上層にあるファミリーレストランだった。眼下に、大都会の夜景が光の海となって広がる。一人のときも、よくここで食べると、彼は言った。
「橋本さん、料理できますよね?」
私は尋ねた。編み物も、イラストも、切り絵も、見事にこなせる人である。こんな場所で一人きりの味気ない食事をするより、自宅で簡単なものを作って済ませたほうが、健康にも良いのではないかと感じたからだった。
「うん、たぶんね。だけど、やらないことにした」と、彼は答えた。「やりたいなと思うと、そのことを考えちゃう。だから、それは全部やめて、これからは仕事だけをする。そのために借金まで作って、ここに越してきた」
あえて居心地の悪い場所を選んで生きる。そういう覚悟が、彼にあった。以来三〇年余、死にものぐるいに仕事をし、去年七〇歳で亡くなった。
その間のことを私は知らない。けれど、彼の声を、いまも思いだす。これについては、いいも悪いもない。ただ、そういう、一つの生き方があった。=朝日新聞2020年5月30日掲載