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本を死なせない! 川内有緒さん、「バウルを探して」復刊への旅路

文:和田靜香 写真:山田秀隆

東京からパリの国連機関へ

 『バウルを探して~地球の片隅に伝わる秘密の歌』は、川内有緒さんにとって、ほとんど“初めて書いた本”といってさしつかえのないものだという。

 「その前に1冊、同じ幻冬舎から『パリでメシを食う。』という本を出していたんですが、それはパリに住んでいた当時、趣味で書き始めて、読まれるとか読まれないとか、そもそも表に出すかも分からないまま書いていたもの。バウルは2冊目でもうちょっと読者を意識した本で、初めて1冊の本を書ききったものでした」

 バウル? バングラデシュ? パリ? とっ散らかっているので話を整理しよう。

 大学卒業後に東京のシンクタンク等で働いていた川内さんは2004年、パリの国連機関へ転職する。全世界2000倍の応募を勝ち抜いての、華麗なる転職だ。「人類共通のミッションに向かって国境や人種の壁を越え、力をあわせて仕事をしたい!」と願い、熱いパッションと共に働き始めた川内さんだったが、実際の仕事は海外へ行って偉い人から話を聞いて、報告書を作成するばかり。例えるなら「テレビ番組でルーブル美術館を見るような」リアリティのなさだった。もちろん、パリでの日々はエキサイティングで、世界各地から集まった同僚たちは個性的で面白く、いい車に素敵なアパート、一生涯貰える高額な年金も約束されていた。

 でも……。「なりたかった自分からますます遠ざかっていく」と、川内さんは5年半で国連をあっさり退職してしまう。残ったのは、パリの街に生きる市井の友人たちについて書き貯めていた文章だけ。悪戦苦闘の営業の末、帰国間際のタイミングでそれは本になることが決まった。

 「国連を退職し、日本に帰って来たのは2010年の5月でした。最初の本『パリでメシを食う。』が7月に出版され、また一旦パリに行ったんですが、8月に日本へ戻ると、もうやることがなかった。どうしようかな?と考えている中で、そうだ、バウルを探しに行こう!と思いついたんです」

写真家・中川彰さんとバングラデシュへの旅

 その1年前、川内さんは国連の仕事でバングラデシュに行っていた。そこでユネスコの無形文化遺産に登録された、バングラデシュの伝統芸能「バウルの歌」に出会う。いや、出会うというか、そういう歌をうたう人たちがいるにはいるけれども、「めったに出会うことができない、聴くことができない」と教えられ、ずっと興味を抱いていたのだ。

 「それで、友人の中川さんに連絡したんです。バングラデシュに、バウルを探しに行かない?って。そうしたら、ああ、いいね、行こうと話は5分もしないうちに決まって、11月に2週間行くことにしました。ちょうどお互いの予定が合って、現地の気候がいいのもそこだった。今ならもっとじっくり腰を落ち着けて滞在して話を聞こうとか考えたでしょうけど、あの頃は絶対にバウルを探してやろうという気負いもなく、本に書くかどうかもわからず、良くも悪くも何も考えてなくて、ちょっと歌が聴ければいいや、楽しくやろうぜ、みたいなものだったので、2週間で十分だと思っていました。たぶん、自分が何に足を踏み入れているのかも分かってなかったんだと思います」

 また、ちょっと整理すると、中川さんというのはカメラマンの中川彰さんという方。バウルを探す旅には中川さんと日本から出かけ、アラムさんという日本語ペラペラの通訳の男性と現地で落ち合って3人で旅をした。川内さんは中川さんに2003年、国連で働く前に知り合っている。

中川彰さん(左)と通訳のアラムさん(川内有緒さん提供)

 「中川さんは大親友とかそういう人じゃないけど、すごく重要な人で、彼がいたから物を書き始めた。何かを書く、直接的なきっかけになった人です。そもそも私の妹が恵比寿でやっていたデザインのアンテナショップに、中川さんが取材のカメラマンとして来て、妹が『お姉ちゃんと気が合いそうな面白い人が来たよ』というから、後日会う約束をしたんです。それで話しているうちに『少数民族が好き』とか本当に気が合って、『じゃ、旅に出ましょう』とトントン拍子に話が進み、一緒にメキシコの山岳地帯に行くことにしました。そうしたら中川さんが『どうせならどっかの雑誌に企画を持っていかへん?』と言って、全日空の機内誌『翼の王国』にアポをとってくれて売り込みに行くと、なんと採用に。そこで生まれて初めて原稿らしきものを書きました。中川さんがいなかったら、私は物書きにはならなかった。その後、中川さんとはパナマにも旅して、バングラデシュにバウルを探しに行ったのは、二人での5年振りの旅でした」

旅の成果はなかなかまとまらず

 さて、問題です。川内さんはここまで何か国を訪れているでしょうか……と、言いたくなるほど旅から旅、世界を駆け巡る川内さん。旅をすることは川内さんにとって人生そのもので、中川さんという人との出会いから、それを書くことが人生に加わり、一番大切なことになった。バウルを探す旅は川内さんにとって「人生がまだ定まらない中で、宙ぶらりんのままになんとなく出た旅だった。でも、だからこそ純粋な旅で、旅そのものだった」という。その旅は想像を絶する満員電車に乗って聖地を訪ね、祭へ行き、毎日カレーを食べ、この人がバウル?そうじゃないの?じゃ、バウルって何?と問いかけ続け、バングラデシュの歴史を見つめ、いつの間にか自分の人生を考えた。そして、それをありのまま書いた。

 「でも、書くのは本当に苦労しました。あまりに長く書きすぎ、編集者から『全体的に削って下さい』と言われてしまいました。私が書けないというのは文字が埋まらないというのじゃなく、書きすぎてまとまりがつかなくなるということ。自分の実力を超えた題材で、完成するまで2年かかりました」

 そうしてやっと出版の日が決まり、川内さんは中川さんに電話をした。ところが、つながらない。「あれ、おかしいな?」と思っていたら、その前の日に中川さんは急性心筋梗塞で亡くなっていた。49歳だった。

 「最初に出した本には中川さんの写真はほとんど使われていませんでした。二人で旅をしたけれど、一緒に発表しなければいけないとは思っていなかったんです。彼の人生を振り返ると、当時の彼は人生に悩んでいて、そもそも誰かのために写真を撮りたいのではなく、自分のために撮りたかったと思う。それぞれの旅をして、それぞれ発表していこうって。ただ、時が経ってみると、中川さんは亡くなってしまい、その写真が本としてまとまる機会がなかったことに、もったいないという気持ちが徐々に大きくなってきたんです」

三輪舎の中岡祐介さんとの出会い

 折しも「バウルを探して」の在庫は幻冬舎の倉庫からもなくなっていた。「増刷はしてもらえないでしょうか?」と尋ねたが、答えはノー。そこで版権を別の出版社に移して出してもいいか?と尋ねると「本が死ぬよりいいです」という返事を、担当編集者だった人からもらった。さっそく川内さんは幾つかの知り合いの編集者に声を掛けてみた。

 「私の本を出してみたいという版元さんに幾つか声を掛けてみたんですが、みなさん『一回出した本をもう一度出すのは難しい』という答えでした。ああ、難しいんだなぁと半ばあきらめかけていたんですが、ちょうどその頃、装丁家の矢萩多聞さんと岡山に別の仕事でご一緒する機会があったんです。矢萩さんに『バウルを出し直したいけど、難しそう』と話したら、『川内さん、三輪舎があるじゃないですか。三輪舎から出せばいいんですよ。しかも文庫じゃなくて、単行本で出せばいい』って言われて。中岡さんには、それまで一度しか会ったことがなかったけど、ああ、そんな手があったのか!って完全にピンときました」

 「どんな手だ(笑)!」

 と、大笑いしたのが三輪舎の中岡祐介さん。今回の川内さんの本再生の旅のパートナーだ。中岡さんは6年前、子どもが生まれたのを機にそれまで勤めていたTSUTAYAなどを展開するCCCを退職し、横浜で一人出版社の三輪舎を始めた。「おそくて、よい本」をつくるという身上で、これまで6冊の本を出版してきた。

 「矢荻多聞さんが川内さんと岡山に行って帰って来るとき、僕はちょうど京都にいました。矢荻さんとは元々友人で、彼は京都に住んでいる。それでお宅に泊めてもらったんですが、『川内さんと岡山でこんな話になって、三輪舎で出したらいいんじゃないかって言っておいたよ』と、いきなり言われました。最初、そういう話自体は面白いなって思ったんですが、でも、そのまま出すのはつまらないと感じました」(中岡)

 そこでクローズアップされたのが中川さんの写真だ。

 「それまで、もったいないという気持ちはありつつ、中川さんの写真を絶対に世に出さなきゃいけないという強い使命感があったわけじゃないんです。ただ、本が絶版になってしまうと、もはや私と中川さんのつながりまで消えてしまような寂しさを感じていました。だから、このときは、これだ!この機会に中川さんの写真を世の中の人に見てもらわなきゃ!と思いました。中川さんの妻の直美さんにすぐ連絡して、池袋のカフェで中岡さんと3人で会いました。とにかく見て下さい!と」(川内)

 100枚以上の写真からは濃密な色と熱が放たれ、しかし、圧倒的に生活の匂いがする。バングラデシュの人々の営みの姿に引き込まれる。

 「すごい写真だなって思いました。著者をサポートする形で撮ってる写真じゃなく、中川さんもまた自分でバウルを探しているのが分かる。文と写真は最初から別物だったんです。でも、その別物を一つにするのは面白いと感じ、色々考えて『バウルを探して〈完全版〉』というタイトルで出版することに決めました」(中岡)

写真の魅力が映える「復刻版」

 川内さんと中川さんがバングラデシュへ旅に出たのは10年前。最初の本が出たのが7年前。その直前に、カメラマンの中川さんは亡くなった。そして、やっと、新たな本『バウルを探して〈完全版〉』として、文章と写真が初めて一緒になる。一度出版された本が、いわゆる「復刻版」として数十年して再び出ることはあっても、こんな風に復活することは、出版業界ではとても珍しいことだ。

 「本はコデックス装にしようと最初に決めました。コデックス装とは、本の背を糊で固めないことで、見開きにしたときに180度開くことのできる製本技術で、写真も全部きれいに見られます。本の背にある模様は、多聞さんが労力をかけてやってくれました」(中岡)

 「最後まで機織り職人の気持ちでやっておりますって多聞さんからメールが来て、時間をかけて仕上げてくれたんだなぁと思いました。手仕事の風合いがいいんですよね。あと、綴じ糸もキレイ」(川内)

 赤や緑、黄色と色々な色の糸で綴じられていて、新しく生き返った『バウルを探して』は存在感が圧倒的に美しい。本棚に並べて、長く愛でていたい。しかし、そうなると心配になるのが、お・か・ね。製作費がかかっていそう。これ、採算度外視ですかね?

 「あはは。うちみたいに小さな出版社が採算度外視にしたら、自殺行為ですから。でも、全部売り切ったところでそんなに儲けは出ませんけどね。ただ大手だと1年以内に売り切れない本は在庫リスク扱いされますが、うちみたいな出版社では3年、5年、10年のスパンで売っていくので、そもそもリスクにはならない。在庫があるのは、売るものがあるという考え方ですから」(中岡)

 そうだ、三輪舎は「おそくて、よい本」がモットーだった。それに、ぴったりの本が完成した。何せここまで来るのに十年がかりなんだから。そして中岡さんは自らレンタカーの2トントラックを運転し、完成したその本を製本所まで受け取りに行った。実は本を受け取るのは、いつもそういう風にしているんだという。

 「やっぱり一番に自分が見たいじゃないですか、完成した本を。ふつうは流通業者が取りに行って最初に手に取り、そのうちの1~2冊が見本として編集者のところに届く。でも、せっかくがんばって作った本なんだから、自分がいちばん最初に出迎えたい。保育園に子どもを出迎えるのと同じですよ。本を迎えに行きます」(中岡)

 中岡さんはその足ですぐ、川内さんの自宅へ行った。ピンポーン。はーい。

 「本を届けに行きますと言われたけど、本当に来るのかな?と思っていたら本当に来て、本を届けてくれました。お茶でも飲みますか?と言ったら『いや、トラックを外に停めたままなので』ってそのまま帰ってしまわれました」(川内)

 文と写真が一緒になった、十年越しの『バウルを探して〈完全版〉』の完成だというのに。本の旅の結末は、意外とあっけなかった。

 「でも文と写真が一冊になった感慨は大きいです。面白いのは、前に文庫版を読んでくれた人たちがまた完全版を買って読んでくれ、前とは違う読書体験だったとツイートを大勢がしていたことです。本のカタチが変わると、読み心地が変わるんだなって分かりました。みなさん、初めて中川さんの写真を見ることで、前とは全然違う体験をされている。私自身も文章で脳内再生できているつもりでいたけど、写真があることで違うカタチで再生されるようになった。本は読まれて初めて本になるというのはあるでしょう? 色々な人にこの本は何度も読まれて、幸せな本だと思う。こんな風に素敵な本にしつらえてもらえて、本当にありがたいです」(川内)

 ちなみに「バウル」とは、昔の言葉で「風を探す」という意味らしい。さぁ、ページを繰って、風を探そう。今は遠くへは旅は出来ないけれど、本で旅に出るんだ。