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「コロナ in フランス」本でひもとく 五感を取り戻し世界を味わう 関口涼子さん

イラストを描いた木製の柵でテラス席を拡張したレストラン=パリ、7月22日、AFP時事

 日本より厳しい外出制限を実施したフランスで二カ月自宅のドアをほとんど開けずに過ごした結果学んだのは、普段軽視されがちな嗅覚(きゅうかく)が、実は私たちが世界を理解するのに大いに役立っているということだった。既知の匂いだけに囲まれると、外への想像力が枯渇していく。

 モリー・バーンバウムの『アノスミア』には、事故で嗅覚を失った著者の日常が一変する様、そして嗅覚を取り戻すことは世界の再獲得と同義であることが書かれている。恋人の匂いを感じられないことで、彼との記憶まで失われ、別の人間になったように感じてしまうこと。

 哲学者のバティスト・モリゾは、現在の環境危機はすなわち感性の危機であり、それは、私たちが、生きた世界と紡ぎ得る関係を感じる能力、それを表現する言葉が貧困になった時に起こるのだと書いている。

自然は匂い立つ

 五感を通じて自然と人間をつなぐ仕事をしている人たちには共通する部分がある。シャンパーニュ醸造責任者のエルヴェ・デシャンは、どれだけ機械化が進んでも、嗅覚を通じてワインの味を組み立てる醸造担当の仕事はコンピューターには取って代われないと言う。また、植物学者のマルク・ジョンソンは、一見死んでいるように思える十八世紀の植物標本を開くと、匂いが立ち上がり、今は存在しない樹木や森の湿度、周囲の様子まで浮かんでくると説明する。

 そう考えると、多くの職人は、五感を鋭敏にし、世界が与える豊かさをものという形で私たちに受け渡しているのだとは言えないだろうか。

 塗師(ぬし)であり、数々の著作もある赤木明登の『二十一世紀民藝』には、「句を詠むことも、器をつくることも、茸(きのこ)を採ることも、人為であり、人工であるけれど、その営みはいつも同じ方向を向いている。『自然』と向き合うこと」とある。

 また、職人は語るべきではないと言われるが、自分のヴィジョンを明確に言葉にすることで初めて、言語化できない巨大な世界が立ち現れてくるという。

 同じ物を食べても、他人がどう感じているかはわからないように、五感は基本的には個人的なものだが、言葉を通して初めて分かち合いが可能になる。

他者への想像力

 カタストロフは時を選ばない。コロナ禍の只中(ただなか)、熊本を水害が襲い、ベイルートの街を爆風が吹き抜けた。モーリシャス諸島付近では日本のタンカーが座礁し、多大な環境被害を引き起こした。

 私たちのどれだけが、カタストロフは世界各地で毎日のように起こっていると意識しているだろうか。時に、他者に関する無関心がこの伝染病がもたらした一番手に負えない「症状」ではとも思えてくる。

 ゼイナ・アビラシェドの『オリエンタルピアノ』(関口涼子訳、河出書房新社・2640円)は、西洋音楽とアラブ音楽が演奏できるピアノ開発を試みた主人公と、そのひ孫の二カ国語習得、内戦による亡命を重ねる語りを通じて、私たちからは遠く思われるベイルートが、文化と歴史に富んだ街であり、様々な悲劇に見舞われながらも、複数の文化を手放さなかったことを教えてくれる。

 また、コロナ禍が二重にもたらした困難はごく身近にも存在する。給食中止の影響について考える手がかりになるのは、藤原辰史の『給食の歴史』。貧困家庭の問題だけでなく、食べることは生きること、そして学びの基本でもあり、給食とは、まさに自分と食物という具体的な外界を分かち合う共同体を作り上げる行為なのだと気づくだろう。

 今手に取るべきなのは、世界を「感じる」ため、私たちの目を外界に向けてくれる本かもしれない。=朝日新聞2020年8月29日掲載