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李琴峰さん「星月夜」インタビュー 女性同士の恋愛、実感を込めて描く

文:小沼理、写真:斉藤順子

生まれや宗教が異なる二人の、近くて遠い関係

――『星月夜』は台湾出身の日本語教師・柳凝月(りゅうぎょうげつ)と、新疆ウイグル自治区出身の留学生・玉麗吐孜(ユーリートゥーズー)という二人の女性による日本を舞台にした恋物語です。この小説を書こうと思った動機を教えてください。

 まず、私がウイグル人という少数民族をめぐる問題を考えるようになったのは2015年に一人で中国を旅行した時でした。西安という都市へ行ったのですが、西安は新疆ウイグル自治区から近いところにあり、移住しているウイグル人が多いんですね。でも、西安に住む人たちはウイグル人に対して良いイメージがなく、よく盗みをはたらくといった偏見を抱いていました。

 さらに詳しく話を聞いていく中で、ウイグル人は北京や上海へ旅行に行っても、なかなか宿泊施設がとれないといった差別がある現実も知りました。

――小説の序盤、玉麗吐孜がはじめて新疆を離れて北京を旅行する場面ではまさにそんな差別が描かれています。ホテルが見つからず、ようやく見つけた部屋では公安に立ち入られ横暴な態度で荷物を検査される描写がありました。

 そうですね。そうしたことを知るうちに自分の中で問題意識が生まれたことが『星月夜』を書いたきっかけです。

――もう一人の主人公である柳は、台湾人で日本語教師という設定です。この人物像は台湾から日本に来て、小説や翻訳など言葉を扱う仕事をしている李さん自身とも重なります。

 柳という人物には私自身の体験も入っています。私も大学院で日本語教育を専攻したし、実際に日本語を教えたこともありました。もっと言うと、作中に出てくる柳の論文は私の修士論文の一部です(笑)。

 玉麗吐孜と柳は互いに思い合っているけど、玉麗吐孜はイスラム教徒でもあって、自分がレズビアンであることをなかなか受け入れることができません。いろんなことから自由になりたくて新疆を脱出して日本にやってきたけど、自分の中にある宗教からは自由になれない。柳はそんな玉麗吐孜の心境を体感的に理解できないし、ウイグル自治区をめぐる政治的な問題もわからない部分がある。そんな二人の近くて遠い関係をどうやって描こうか、かなり考えました。

 書き始めたのは2017年で、初稿ができたのは18年。それから紆余曲折があり、19年末に「すばる」誌上で発表しました。発表までに時間が空きましたが、17年当時は日本や欧米でもウイグル自治区のことはほとんどニュースになっていませんでしたし、小説の資料となるような情報も少なかった。物語の大まかな構造や結末は最初から大きく変わっていませんが、この間に細かな部分を新しい情報に即して直すこともできたので、結果的には今のタイミングで良かったと思っています。

 ちなみに、舞台裏の話ですが『星月夜』を書いたのは『五つ数えれば三日月が』よりも前。『星月夜』の要素を取り出して短編を書いてみようと思ってできたのが『五つ数えれば三日月が』です。『五つ数えれば三日月が』では日本で働く台湾生まれの主人公の、大学院で知り合った日本人の実桜への恋心を描きましたが、これは『星月夜』の柳と実沢志桜里の関係が原型になっています。

言葉を避けることで見えなくなる現実がある

――『星月夜』は女性同士の恋愛を描いた小説ですが、李さんはこれまでにも女性同士の恋愛やセクシュアルマイノリティの物語を描き続けています。

 セクシュアルマイノリティを描いた日本の小説で、リアリティを持って書かれた作品はまだ多くないと感じます。それにレズビアンの小説はあっても、日本に住んでいる外国人のレズビアンを描いた作品はありません。それは自分にしか持てない視点なのだと思っています。

 自分が小説を書くからには、実感を持ってセクシュアルマイノリティの現実を書きたい。まだあまり書かれていない、他の作品では描ききれていないものを描いていきたいです。そのために、作品に私自身の実感を取り入れることもあります。ただ私の体験がすべてではないこともわかっているので、身の回りの人達の話を聞いたり、資料を読んだりして得た情報も踏まえながら書くようにしています。

――最近はセクシュアルマイノリティが登場する作品は増えつつありますが、こうした作品をどう見ていますか?

 日本ではまだパターン化されたものが多いと感じます。「おっさんずラブ」や「きのう何食べた?」などは私も面白く観ましたが、それらはBLの延長線上にあり、いまひとつ物足りなさを感じました。女性同士の恋愛を描く映画やドラマとなると、もっと少ないですね。質的にも量的にもかなり進歩の余地があります。

 西洋で作られたドラマや映画をNetflixなどで見ていると、本当に多様なセクシュアリティの表現が含まれています。日本でも、もっといろんな人がいろんなものを書いたり作ったりしていかなければいけないと思っています。

――作り手だけでなく、読者や視聴者の受容の仕方もパターンがありますよね。たとえば日本でセクシュアルマイノリティの恋愛を扱った作品に対して、「性別なんて関係ない」「愛のかたちは同じ」といった感想がよく挙がります。

 そうですね……「同性愛も異性愛も関係ない」っていう陳腐な言説って、本当に跳梁跋扈しすぎですよね(笑)。違わないわけないでしょって。同性愛者はいろんな偏見を受けたり権利が認められなかったりする現実があるのに、そこに目を向けずに「同性愛も異性愛も関係ない、みんな平等!」なんて言っても何も変わらないし、そういう表現は誠実なものじゃないと感じます。

――では、そんな李さんがセクシュアルマイノリティを描く時に意識していることはありますか。

 マジョリティの固定観念に迎合しないことでしょうか。たとえば、レズビアン、セクシュアルマイノリティ、といった言葉を恐れずに使うのもそのひとつです。

 まず、こうした言葉を自分のアイデンティティとして使っている人がたくさんいるという事実があります。だけど女性同士の恋愛を描く時、これらの言葉を使うことを執拗に避けているようにみえる作品がある。言葉を避けることで、見えなくなってしまう現実があります。もっと尖った見方をすると、マジョリティ側の人がびっくりせず、安心して観て読んでいられるよう、あえて避けているのかな、と思う節もあります。それって、つまり迎合ですよね。

 反対に、こうした言葉を使えば社会に生きるマイノリティの実情を投影することもできる。作中にその言葉を見つけて安心する人もいると思いますし、私は避けたくないなと思っています。

カテゴリーを求めることと、脱出すること

――『星月夜』では、そんな性的指向や国籍のアイデンティティをとらえる上で「言葉」が重要な鍵を握っています。李さんは以前、『透明な膜を隔てながら』というエッセイで言葉を「壁」ではなく「膜」と表現しています。「言葉の壁」と表現すると乗り越えることができそうだけど、実際にはどこまで行っても越境することはできないと。この「膜」の感覚は、言語だけでなく国籍やセクシュアリティでも近いものがあるのかもしれないと思いました。

 そう言うこともできるかもしれません。「膜」は日本語を学んでいく中で、私の体感から生まれた比喩。それは天と地の間に張られていて、限界まで薄めることはできても、決して超えられないものです。

 あらゆるカテゴリー、つまり国籍や言語、出生地、セクシュアリティから逃げようとする時、絶対に限界があります。ひとつのカテゴリーに決めつけられていると息苦しく感じますが、じゃあそこから脱出して遠いところへ行って、何にも当てはまらない生き方をすれば安心できるかというと、そんなに単純なことではなくて。

 人は何かしらカテゴリーを求めて生きる生き物です。カテゴリーで世界を見て、他人を認識して、自分に当てはまるものを探して生きてしまう。ただ、完全な脱出は不可能だけど、どうすれば息苦しくなく生きられるのかを考えることは大切だし、その逃走のプロセスは貴重なことだと思います。

――『星月夜』の結末では、そのプロセスを経た二人の関係性が描かれていました。そして、このカテゴリーをめぐる問題意識は新宿二丁目のレズビアンバーを中心とした群像劇『ポラリスが降り注ぐ夜』でも描かれています。セクシュアルマイノリティをめぐって「私はこうだ」というカテゴライズに安心する人、縛られたくないと思う人、様々な価値観の人が描かれていました。

 そうですね。さっきも話した「同性愛も異性愛も同じ」といった差を見えなくする陳腐な言説に抵抗する一方で、細分化されるカテゴリーを「あなたはこうだよね」と決めつけてしまうのも違う。私自身がどちらにも違和感を覚えていますし、その両極端の間に、自分にとってバランスのいいところが人それぞれあるはずです。その地点を見つけようとすることは、少なくともマイノリティにとって生きるテーマになるのではないでしょうか。

星や月、天体をモチーフにする理由

――最後に、タイトルについてお聞きします。『星月夜』という題はどんな風に決めたのでしょう?

 ウイグル人のことを書きたいと思って調べていくうちに、ウイグル人は女性であれば花や鳥など、意味のある名前をつけることが多いのだと知りました。その中で、「星」を意味する玉麗吐孜という名前を見つけました。一人が星ならもう一人は月にしようと考え、そこから発展させていきました。

――『ポラリスが降り注ぐ夜』『五つ数えれば三日月が』など、李さんは他の作品でも星や月をモチーフにしていますね。

 言われてみれば多いですね(笑)。月というイメージは古代から現代まで、いろいろな文学で使われています。別々の場所から見ても月のかたちは一緒で、こちらから見て丸ければ、向こうから見ても丸い。『五つ数えれば三日月が』でも、台湾と日本という離れた場所を描く上でそのイメージを取り入れました。

 子どもの頃は宇宙や星に興味があって、特別詳しいわけではないのですがいつも惹かれていました。強いこだわりがあるというよりは、自然と出てくるのだと思います。

 大人になって衛星や惑星の知識がついてくると、地球にとって身近で特別な存在の太陽や月といった天体も、宇宙スケールでみればただの星のひとつだと知りました。たとえば月は衛星で、自分で光を発していないとか。そういうことを知るたび、違う世界が見えてくるように感じられて、小説のアイデアにもつながっていくんです。