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「村上春樹の短編」を読む くねくね操り、踊らせる手腕 マイケル・エメリックさん

画・豊田徹也(村上春樹著『一人称単数』から)

 プロットで読者をぐいぐい引っ張る村上春樹の長編小説も好きだが、じつをいうと私は昔から彼の短編の愛読者である。作者自らの無意識を、鍬(くわ)でもくもくと掘り起こしていくような長編に比べ、短編はシンプルで軽快に書かれており、いうならば地面に転がる、妙な形をした小石を拾うような感覚がある。手のひらに乗るコンパクトさだからこそ、短編はかえって村上春樹の文学者としての「腕」をよく見せてくれると思う。

 こんな見立てもできる。長編小説の村上春樹は、物語という駿馬(しゅんめ)の背中にあえて後ろ向きに跨(またが)り、遠くまで導かれるままにどんどん駆けていくのに対し、短編小説ではしっかりと手綱を握り、くねくねと自由自在に馬を操り、踊らせてみせるのである。そういう意味で長編と短編とでは、作者としての姿勢がまったく異なるように、私は思う。

村上=ムラカミ

 村上の最新の短編集『一人称単数』は、村上の短編小説の特徴をよく体現しているように思う。と同時に、今までの村上短編とは少し趣が違う、肩の荷を下ろした「余裕」、もしくは「風通しがよい」と表現できるようなものを感じ取った。

 題名がほのめかすように、この短編集の語り手は村上自身に設定されている。それ自体は別に目新しいことではない。35年も前の短編集『回転木馬のデッド・ヒート』でも「村上」という人物が語り手になっていた。しかしその話はどれも「聞き書き」という体裁をとっている。例えば巻頭の「レーダーホーゼン」は語り手の「僕」が「妻のかつての同級生」から聞いた珍話である。ちなみに、これは個人的にとても好きな話である。

 今回の『一人称単数』の8編はどれも村上自身と思(おぼ)しき人物が、そのまま自らの経験を語るという体裁をとる。これは村上の小説としては珍しい。しかも『猫を棄(す)てる』で初めて詳細に述べられた、何年も疎遠になっていた父親への言及もある。個人的なことをこれまで表に出してこなかった村上春樹は、以前ほど「ムラカミ・ハルキ」として群衆の目に自分をさらすことを苦にしなくなったようだ。

 苦にするどころか、この8編の短編において村上は「村上=ムラカミ」という設定をとても楽しんでいるように思う。例えば「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」という作品では、語り手の「僕」が大学の頃ある文芸誌で発表したという出鱈目(でたらめ)のレコード評が引用されている。そこには「あなたにはそれが信じられるだろうか?」と問いかける箇所がある。小説の最後の方でも、それと全く同じ言葉が、今度は「僕」から読者に投げかけられている。

 これまで、一個人としての村上春樹は、日本文学を代表する、世界的に有名な作家ムラカミ・ハルキとは隔てられていた感があった。しかし、この短編の中では近代日本文学の常套(じょうとう)である「私小説」という制度と、作者が悠々戯れている趣がある。こんな遊び方は、これまでの村上には見られなかったと思う。

自ら窓を開けて

 1995年刊行の、これまたすばらしい短編集である『夜のくもざる』の表題作に、語り手の作家が深夜に机で物書きに没頭していると、窓から怪しいくもざるが入ってきて、語り手の言葉をそっくりそのまま、しかし時には表記を変えて、繰り返す箇所があった。「よせよな」とこっちが言えば、猿は「ヨセヨナ」という具合に。この猿は、作家がしたためる言葉をそのまま(しかし、本当はそのままではなく)受け止める読者の見立てになっている。

 あの短編では、猿は窓をこじ開けて入ってきた。しかし今回は村上が自ら窓を開け、リラックスした面持ちで、読者を中に手招きしているようだ。=朝日新聞2020年10月3日掲載