原作の言葉と余白を大事に
――まずはお二人が原作を読まれた感想を教えてください。
北村匠海(以下、北村):西加奈子さんの描く言葉って独特で、ストレートで、だけど読み手への余白もちゃんとあってすごく好きです。この映画を作る上でも、その言葉と余白を矢崎(仁司)監督はすごく大事にされていたなという感じがしました。僕にとっても、すごくいい読書体験でしたね。
小松菜奈(以下、小松):名言というか、このまま歌詞になるんじゃないかなと思うような言葉がすごく多かったのが印象的です。ストレートで突き刺さってくるような時もあるんですけど、作中で子どもたちに性のことを話すシーンで「魔法」という言葉を使って包む感じや、何か「ほわっ」としている部分などは他の人にはない物語性というか、言葉の使い方や表し方みたいなものが独特で、西さんの他の作品も読んでみたいなと思いました。
――本作のタイトルにもなっている長谷川家の愛犬「サクラ」との共演はいかがでしたか?
北村:サクラを演じたちえは、本当にお利口さんでしたね。僕は犬を含め、動物と撮影をしたのは初めてだったんですけど、言葉が通じない分、ある種ちえの奇跡にかけるという場面が何度かあったのですが、その度ちゃんと応えていたし、僕らの感情に寄り添ってくれたので、純粋にすごいなと思いました。
小松:私もお芝居で動物とご一緒するは初めてだったので「どんな感じなんだろう」と最初は心配していたんです。映画の後半で、私が車の中でサクラ(ちえ)を抱きかかえて長く話すシーンがあるんですけど、その時も大人しくて、こちらのどんな感情もちゃんと読んでいました。ちえが日々進化していく感じが長谷川家と一体化して、サクラなしでは成り立たないような家族になったんだなと感じました。
北村:ちえの芝居は演出じゃなく「そうなればいいな」という願いのもとにできた奇跡なんですよね。それを「はいはい、やりますよ~」みたいなテンションでやってくれるんです(笑)。
小松:「見たいのはこれでしょ?」みたいなね(笑)。
家族をかき乱していく、美貴の存在
――北村さんは「薫」という役をどう掴み、汲み取ったのでしょうか。
北村:薫は一(はじめ)への憧れと、美貴へのちょっとした嫉妬と劣等感があって、そんなネガティブな気持ちが彼のエネルギーになっているというか、無個性な自分が嫌いだし、そういうコンプレックスを糧に生きているヤツなんだと思いました。
作中には兄弟妹一人ひとりを象徴するシーンがあるんですけど、薫の場合は兄への憧れや、キラキラした光みたいなものを日々追い求めて生きているんです。だけど、その光を失った途端に自分も前に進めなくなってしまうというか。僕の中ではそこが彼の弱さであり、テーマでした。みんなそれぞれに弱いところがあって、割れ物みたいに壊れてしまうんですけど、薫は兄という存在を失ってから一人では前に進めない、というのが要素としてあったのかなと思います。
――小松さんが演じた美貴は、人によっては受け入れがたいキャラクターだったかと思うのですが、彼女の思考や行動というのは受容できましたか?
小松:美貴の気持ちを100%分からなくはない部分もあるんです。私もお兄ちゃんが二人いて、美貴ほどではないですが、お兄ちゃんが彼女を連れてきた時に「こんなお兄ちゃんの顔見たことない」という表情を見た時や、彼女に対して「お前は誰だ?」みたいな気持ちになったことが私にもあったんですよね。
北村:へぇ~、あるんだ。
小松:あるよ! あるある。ずっと自分と遊んでくれたのに、彼女ができたらその人と遊びに行っちゃって寂しい、という気持ちは分かるんです。しかも美貴は、お兄ちゃんを好きという気持ちが溢れ出ていて「狂気的な愛」みたいなものがあるから、そういう部分では「得体の知れない子」みたいなものでいいなと思いました。急に大人びた表情をしたり、子どものようにすねたり、と自分でもよく分からないなと思うこともありましたが、逆に発見することもたくさんありました。美貴という存在が家族をかき乱していくのですが、それによって長谷川家の人たちも改めて思う感情も出てくるので、演じていて面白かったです。
――出産のことを「すろん」と表現するなど、独特な表現や言葉が多く出てきますが、小松さんが印象に残った言葉やセリフはありますか?
小松:私は加藤(雅也)さんが演じるサキコさんの「愛のある嘘をつきなさい」というセリフを聞いた時「愛のある嘘ってなんだろう」って考えたんです。それは相手に対しての思いやりや、喜ばせるという意味で使うことなんだと思うと、嘘の中でも「愛のある嘘」ってすごく素敵だなと思いました。私もサプライズで「愛のある嘘」を割と使っているなと思いましたし、改めて考えさせられる言葉が多かったですね。
語りは限りなく無色透明に
――映画では薫のモノローグも多かったのですが、北村さんが語りで意識されたところはありますか。
北村:今作ではストーリーテラーもやらなければいけなかったので、主観で生きる薫と、語りでの「俯瞰性」というのをちゃんと自分の中で分けてやらなければいけないと思っていました。
語りは芝居じゃなく言葉なので、一言一言を大切にしました。舞台における朗読劇もそうですが「本を読む」ということなので、限りなく無色で透明な感じで、シーンに色をつけないようにしました。小説を読んでいても、どんどん自分の中のニュアンスになっていくじゃないですか。そういうことも意識しながら、この映画が進んでいくにつれて、観ている人たちが自分のことのように感じてくれるナレーションになったらいいなと思っていました。
――事故に遭った一が顔の包帯を取る時、美貴が嬉しそうに鏡を見せる姿が印象的でした。あそこではどんな感情が湧きあがりましたか。
小松:そもそも「割れた鏡を持っている」という設定が難しかったですね。「何で割れた鏡を持っているんだろう」とか、色々考えたら変なんですけど、美貴はそれすらもやってしまうのかなと自分を思い込ませるというか。あのシーンは、美貴にとって「やっと一お兄ちゃんが自分のものになっていく」と思えた時というか。一が思うように動けなくなって家にいることも多くなり、自分と一緒にいる時間が増えたから嬉しいっていう狂気的な気持ちに変わっていく瞬間でもあったので、みんなが悲しいという時に一人だけ違う感情を持っている女の子だから、それはそれでいいのかなと感じ取りました。
困難な今、作品を公開する意味
――作中には、その他にも印象的なセリフがいくつもありましたが、中でも「神様、ちょっと、悪送球やって。打たれへん、ボールを、投げてくる」という一のセリフがあります。お二人はこの言葉からどんなものを受け取りましたか?
北村:このセリフは色々な気持ちになります。今年は特にそう思っている方が多いんじゃないかと思うんですけど「嘘でしょ?」と思うことが人生って起きるんですよね。僕も経験がありますが、神様が結構困難なことを投げてきて、それを乗り越えようと思って乗り越えるんじゃなく、結果的に乗り越えているということがすごく多かったので「何かあってもなんとか踏ん張っていれば」という思いがあります。なので、そこから逃げた一はちょっとずるいのかもしれない。でも、どうしようもなかったんだろうなとも思います。
このシーンで薫は一に対して感情をぶつけますが、一の顔を見れなかったんです。事故に遭って荒んでいき、自暴自棄になった一を取り繕うようにみんなが“よいしょ”していくのを、薫としては見ていられなかったんですよね。それは薫の弱さなんですけど、その感情があの時のセリフや色んなところに実は隠れているのかなと思います。
そういう弱さみたいなものもこの作品ではちゃんと描かれているので、今年公開できる意味がすごくあると思っています。
小松:西さんの独特な世界感というのがすごくあって、それがこのセリフのような言葉として表現されるのだなと思いました。
辛くても進んで行かなきゃいけない事って人生の中でたくさんあって、止まる事ってできないじゃないですか。長谷川家も時間と共に色々なことが起きて、それに応じてそれぞれが立ち上がっていかなければいけない。それは大変なことですが、状況に合わせて人の考えも変わっていくし、時間と共に忘れることもあるし、時に思い出すこともありますよね。そういう時に支えになってくれるのが、この長谷川家では寺島(しのぶ)さん演じる「肝っ玉母ちゃん」みたいな明るく引っ張っていってくれるお母さんと、サクラという存在がこの家族の中で本当に大きかったんだなと思いました 。
――ラストシーンの「僕は尻尾を振ろうと思う」で始まる薫のセリフは、西加奈子さんが原作のあとがきで書かれていた言葉が使われていましたね。
北村: 僕はこのあとがきの言葉が、なんならこの作品を象徴するセリフになっていると思いました。これは小説の言葉ではなく、西さんの言葉じゃないですか。原作を読んでいる身だからこそグッときたセリフでしたし、最後のあの文章は他のシーンのナレーションとはまた少し違って、初めて気持ちを乗せられているところなんです。血が通った感じがして、すごく好きです。
あとがきって面白いですし、意外と大事だったりするじゃないですか。普段からあとがきも割と読みます。物語からそのまま流れていく感覚があって、読後の何とも言えない「あぁ」っていう気持ちの流れで、エンドロールみたいな気持ちで読んでいることが多いですね。