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書き手が誰か 物語は時代や文化超えて 作家・小野正嗣〈朝日新聞文芸時評20年11月〉

西村有 runaway

 誰が何をどう書いてもいい。小説や詩の自由さはそこにある。

 もちろん、その自由は無制限・無責任なものではない。

 昨今、英語圏(とりわけアメリカ)の文学の動向を見ていると、〈誰が〉書いているかが重視されているように見える。自らのアイデンティティーから遠いところにある経験を語る声が、〈非正統的〉とされるような雰囲気といえばよいか。

 これは書き手のバックグラウンドの多様性を担保し、他者の〈声〉を奪わないための配慮だと言える。

 だが〈誰が〉に力点が置かれ過ぎると、書き手と主要人物のアイデンティティーの不一致が作品の受容にマイナスに働くことが起きる。極端に言えば、差別に対する怒りや社会への問題提起など真摯(しんし)な動機に発するとしても、白人男性が黒人女性の物語を書けば、前者は後者の〈声〉を掠奪(りゃくだつ)したのではないかと疑われる。

 いきおい、書き手は身近な知悉(ちしつ)した世界を舞台に自伝的な作品を書くのが〈安全〉ということになる。

 それでも、書き手とはまるで異なる境遇にある人々を語る小説が、やはり作品世界から遠い場所に生きる読者に、他者の痛みや喜びをわがことのように感じさせてくれることは否定できない。小説のそうした力や可能性を実感させてくれるのが、カーソン・マッカラーズ『心は孤独な狩人』(村上春樹訳、新潮社)だ。

 1917年生まれのマッカラーズが、23歳で発表した、アメリカ南部を舞台にする本作では、耳の聞こえない謎めいた男を中心に、よそ者の無政府主義者、貧しい家庭に暮らす音楽を愛する少女、地元のカフェの経営者(この3人は白人)、老黒人医師という4人の物語が、それぞれの視点から描かれる。

 若き作家は自らのアイデンティティーとは全く異なるこの4人の内面に入り込み、その心のうちを、耳の聞こえぬ男に吐露させる。彼を太陽のようにして四つの孤独と苦悩が特異な軌道を描く。だがこの太陽もまた暗く深い孤独を抱えている。

 この小説は、〈孤独〉という人間の普遍的感情を描きながら、同時に資本主義の矛盾、白人労働者階級の困窮や苛烈(かれつ)な黒人差別をあぶり出す。そこに描出された第2次世界大戦前夜の不穏な〈いま〉が、僕たちの生きる〈いま〉を揺さぶるさまざまな問題と恐ろしいほど響き合う。

     

 時代への呼応という点で、コルソン・ホワイトヘッド『ニッケル・ボーイズ』(藤井光訳、早川書房)は〈いま〉だから書かれなければならなかった小説だろう。本作は、1960年代にアメリカのフロリダ州で実際に起きた黒人少年たちの虐待殺人事件を下敷きにしている。

 主人公の黒人少年エルウッドは無実の罪を着せられ、ニッケルという学校に送り込まれる。そこでの恐ろしい体験が彼の人生を一変させる。

 この小説がかくも胸に迫るのは黒人作家が同胞の受難を描いているから? ただそれだけではない。

 史実に基づくこの小説の語りには、人物のアイデンティティーに関して驚くべき仕掛けが仕組まれている。そしてそのことが〈物語〉というものの能動的な役割について考えさせる。それは、〈声〉を奪われた他者の〈代わり〉に、いや、ほとんどその他者と一体になって語り、生き、その者を鎮魂することではないのかと。

     

 書き手が〈誰か〉に関して言えば、異なる文化や言語に出自を持つ人が、僕などには思いも寄らぬ深い読解と洞察を日本の作家について示してくれるとき感動はとても大きい。

 ナーヘド・アルメリの『金子みすゞの童謡を読む』(港の人)はそんな本だ。この清楚(せいそ)な佇(たたず)まいの小著はダマスカス大学日本語学科を卒業後、筑波大学大学院で学んだシリア人女性の博士論文が元になっている。

 いまでは多くの人に愛される、26歳で自死した金子みすゞに特有の〈想像力〉の飛翔(ひしょう)が、どのような詩のことばによって作られているかが、詩人が影響を受けた西條八十と北原白秋の作品との比較によって鮮明に浮かび上がる。

 著者はみすゞの特徴として、一つの対象に加担しない「複眼的な視点」を挙げるが、それは日本とシリアの文化的・文芸的伝統に接するときの彼女自身の態度を思わせる。
 巻末の「金子みすゞと私」という美しいエッセイを読むとき、書き手と読み手のあいだに時代や文化や言語の差異を超えて生まれる、あの〈文学的〉としか形容できない〈出会い〉を寿(ことほ)ぎたくなる。=朝日新聞2020年11月25日掲載