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直木賞受賞作・西條奈加「心淋し川」 よどみに浮上する希望の灯

 じんわりと目の奥が熱くなった。胸にしみいる小説とはこういうことをいうのだと、読了後著者に思わず感謝の言葉をつぶやいた。

 6編の連作でつづられる本書は、ひとことでいって地味な小説である。場所は江戸の千駄木あたりとわかるものの、時代は江戸後期のいつかというだけで特定されていない。社会的な事件とのかかわりもない。登場人物はだれもが自身の不幸な過去や生きづらさから逃れられず、日々の暮らしにあくせくしている。だからこそ、というべきか舞台となる心町(うらまち)の、塵芥(ちりあくた)が堆積(たいせき)してよどんだ川が各々(おのおの)の心のよどみを映しこんで、見事な心象風景を描きだしている。

 不細工な妾(めかけ)ばかりがよせあつめられた長屋で張形に仏を彫るりきも、棄(す)てた女が歌っていた唄を口ずさむ童女に心を動かされる料理人の与吾蔵(よごぞう)も、いきすぎた母性愛と自覚しつつも息子への執着だけを生きがいとする吉(きち)も、私たちとおなじ欠点だらけの人間で、苦難にみちた人生はいつの時代も変わらない。

 この小説の白眉(はくび)は、各章で脇役として登場する差配(さはい)の茂十(もじゅう)と物乞いの楡爺(にれじい)の因縁が語られる最終章の「灰の男」だ。情とはなにか、罪とはなにか、恨みとはなにか……茂十の壮絶な思いが呆(ほう)けた老人のそれと呼応しあうところは見事としかいいようがなく、胸に深く突き刺さる。すべてが集約して哀切なラストに至る過程も、塵溜(ごみた)めのごとき町の片隅からいつしか仄(ほの)かな希望の灯がうかびあがってくるところも、著者の卓越した手腕を感じさせる。

 私たちは今、閉塞(へいそく)感をかかえ不安な日々を送っている。だれもが豊かさや便利さだけを追いかける時代は終わったと感じているはずだ。心町の住人たちとなんら変わりはないのだと気づいたときに、日々のつつましい営みの中にひそむ、ささやかなぬくもりがみえてくる。

 本書は直木賞受賞作。時宜を得た小説がえらばれたことを、私も心より称(たた)えたい。=朝日新聞2021年1月30日掲載

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 集英社・1760円=3刷9万1千部。2020年9月刊。著者は64年北海道生まれ。本書で第164回直木賞を受賞。

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