前政権では首相の妻や「腹心の友」の、現政権では首相の子息の、それぞれ関係する学校や会社が、行政から破格の扱いを受けた。首相に厳しい質問をしたニュースキャスターが、番組を降板することになった。「世界のたががはずれた」というハムレットの科白(せりふ)が、今日の日本ほど切実に響く舞台はないだろう。だが、この現状に対して、有権者一人一人の責任が問われているという意識は、十分に強くはない。
サンチョの責任
そこで一読を薦めたいのが、『尾崎行雄 民主政治読本』である。日本国憲法施行直後に刊行された本書は、民主主義への清新な期待で貫かれている。だが、それは「戦後民主主義」ではない。1890年に代議士となって以来、藩閥政府・軍部を批判し続けた硬骨の大政治家の、戦前日本の総括の書である。その筆は、国民にも手厳しい。「私は、満州事変以後の日本人が、ことごとくドン・キホーテになったとは思わない。多数国民は、おそらく少数指導者の唱える『八紘一宇(はっこういちう)』の呪文にかかって、時にはあぶないなあと感じながら、とうとう数々の冒険に巻き込まれた、愚かなサンチョ・パンサであったであろう」
たしかに、巨大な風車に槍(やり)で挑み、弾(はじ)き飛ばされた主人公は、大国アメリカに無謀な戦争をしかけ、大敗した日本そのものに見える。だが、その従者サンチョに責任は問えるのか。
脇役であるサンチョは、道化ゆえ「現実を積極的に高次の秩序へもたらす力はない」が、主人公が一向に現実と切り結ばないから、その役割を多少とも引き受けざるをえなくなったと、英文学者・高橋康也の『道化の文学』は書く。こうして、「責任から自由である」のが身上の道化に、責任主体となる前提が付与される。セルバンテスは、猥雑(わいざつ)な豊饒(ほうじょう)さを誇った「文学的道化」のスケールを「矮小(わいしょう)化」することで、近代的個人を造型(ぞうけい)した。
ならば、サンチョは、どうやって責任をとるのか。彼は「遍歴の最初の冒険ですでに主人の狂気を見抜いている」。だとすれば「正直さ」を貫くことである。
弱さを守る強さ
だが、それが実は難しい。権力者は、しばしば、正直でいたら損をすることを我々に教えようとするからである。1971年、それまでよほどの理由がない限り拒否されることのなかった裁判官の再任が、青年法律家協会裁判官部会という裁判のための研究団体に属する裁判官について拒否された。守屋克彦『守柔』は、その前後、同団体の会員であった著者のもとにも、脱退して裁判所のためにあなたの力を貸してほしいという声が先輩裁判官たちから届けられたこと、それらの声に応えて多くの会員は「青法協にこだわればその将来が閉ざされる」と考え脱退したこと、脱退した裁判官の中からのちに最高裁長官となる者が出たことを伝える。守屋自身は、「平和主義や民主主義を定義するための司法に参加したい」という初志を「曲げたくない」として脱退しなかった。もし脱退していたら、裁判で筋を通すことに自信を持てなくなっただろう。職責を果たすためには、自分に噓(うそ)をつかないことが最低限必要である。同じことは、全ての公務員にも、国民一人一人にもいえる。
「正直さ」を保つことは、栄達の道も閉ざしかねない、心細い道である。老子に、柔弱を守ることが本当の強さだという言葉がある。守屋は、著書の題名をそこからとった。人が「個人」として生きることを励ます憲法13条前段の思想も、これと重なろう。
我々は、「たがのはずれたこの世界を正す」責任を一人一人で担うことが求められた、サンチョ・パンサの子孫である。=朝日新聞2021年5月1日掲載