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「ツボちゃんの話」書評 輪っかになって思いは転生する

評者: 横尾忠則 / 朝⽇新聞掲載:2021年06月19日
ツボちゃんの話 夫・坪内祐三 著者:佐久間 文子 出版社:新潮社 ジャンル:伝記

ISBN: 9784103539810
発売⽇: 2021/05/26
サイズ: 20cm/197p

「ツボちゃんの話」 [著]佐久間文子

 書評のことなど忘れて夢中で活字を追った。これは書評できない。だから思いついたことを書く。
 もし今、誰かに会いたいと思うなら坪内祐三さんかな。「ツボちゃん」こと坪内さんの存在は全く知らなかった。ツボちゃんが知的事変を巻き起こす風雲児だったことを知らなかった僕は、ツボちゃんのテリトリイの外側の人間であったというわけか。喧嘩(けんか)早くて、そのくせみんなから愛される人気者のツボちゃんを知らなかった自分の生息場所は一体どこ? だったのだろう。きっと下戸の僕はそういう場所と無縁だったことと雑誌を読まない人間でもあったからかな?
 ツボちゃんは夫人の「文ちゃん」とも喧嘩をするが、「別れる」「離婚だ」と言っても邪恋(じゃれん)で結ばれた二人は意地があるので本気を戯れに変える技術を知っていて、離れない。先の阿呆(あほう)共との喧嘩とは筋が違う。
 そんなツボちゃんの位相がある日、ズレ始める。「危ない!」予感を察知しながらツボちゃんは宿命に身をゆだねる。ツボちゃんには普段からこういう癖(へき)がある。危機にゆだねる浪漫主義者みたいなヘンなところ。ヤクザにからむ、からまれる、そのまま落ちることへの自己陶酔!
 文ちゃんが気づいたときにはツボちゃんは死の妄想の中。突然、文ちゃんの時間がゆがむ。空間が割れる。思考が止まる。魔界のような領域に魂ともども落下していく。ぜひツボちゃんに会ってみたいと思っていた僕の夢は、この瞬間、ツボちゃんが文ちゃんに残した一言「彼の描いた週刊読売の表紙は好きだったなあ」を最後のメッセージとして透明の世界へ去っちゃいましたね。
 ツボちゃんと文ちゃんの出会いと別れが、今一本の紐(ひも)の端と端で結ばれてメビウスの輪のように大きい輪っかになった。「ツボちゃんの話」はこれで終わったのではなく、今、文ちゃんの想(おも)いがツボちゃんの中に転生し始めている。
    ◇
さくま・あやこ 1964年生まれ。文芸ジャーナリスト。元朝日新聞記者。著書に『「文藝」戦後文学史』。