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「岸惠子自伝」書評 世間の常識の一歩先を行く発想

評者: 石飛徳樹 / 朝⽇新聞掲載:2021年06月19日
岸惠子自伝 卵を割らなければ、オムレツは食べられない 著者:岸 惠子 出版社:岩波書店 ジャンル:

ISBN: 9784000614658
発売⽇: 2021/05/01
サイズ: 20cm/337,4p

「岸惠子自伝」 [著]岸惠子

 岸惠子さんの文章には、心地よいリズムがある。華やかな表現を時折挟みつつも、装飾のための装飾はかけらもない。読みやすさに重心を置いた、とてもシンプルな文体である。
 ただし、語っている内容はシンプルではない。本書の中に、岸さんの本質が表れていると思える挿話を見つけた。小学1年の算数の試験。「次のカッコに適当と思う数字をいれよ。1・2( )4・5( )7・8( )。答えは3、6、9」。この単純な問題を複雑に考えすぎて、カッコの前の数字を足し算して答えてしまったという。
 岸さんの発想は世間の常識の一歩先を行く。戦後すぐ、自宅に泥棒が入った。母親が髪を振り乱して泥棒を追っかける姿を見て「心打たれるエネルギーがあった」と言い、さらには「何回も突っ転びながら一心不乱に逃げきった泥棒にも、なんと逞(たくま)しい根性があったことか!」。こんな感動をする少女がいるだろうか。
 映画界に入ってからの文章にも頻繁に驚かされる。長谷川一夫の芸への執念を感じさせる逸話を紹介した後、こう付け加える。「演ずることにだけ心魂を傾けて、『芸ひと筋』の人生はいやだった」。芸ひと筋は最高ランクの褒め言葉だ。それをあっさり否定し、もっといろいろなことがしたい、と。こんな肝が据わった女優がいるだろうか。
 女性であり、女優であるがゆえに岸さんを蔑視してくる男性についても容赦がない。中東とアフリカのルポを刊行した彼女に、ある男性が能天気に言い放つ。「あんた女優だろ、TVドラマでも書いてりゃいいんだよ」。そんな事例を幾つか挙げ、こんな見立てを突き刺す。「高い地位にある『常識ある立派な知識人』にときおり否めない胡散(うさん)臭さをかぎ取ってしまう」
 今、メディアは当たり前のことを小難しく語ってみせる言説であふれている。岸さんの文章はちょうど対称の位置にある。だから新鮮で爽やかな後味が残る。
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きし・けいこ 1932年生まれ。1951年俳優デビュー。映画「君の名は」など。著書『ベラルーシの林檎(りんご)』など。