書評家・杉江松恋が読む第174回直木賞候補作 顔ぶれ一新、『カフェーの帰り道』受賞を期待 「日出る処のニューヒット」特別編
1月14日、第174回直木賞選考会が開かれる。
候補に上がった5人の作家のうち、初ノミネートが4人もいる。『カフェーの帰り道』の嶋津輝のみが2回目と、顔ぶれが一新された回となった。初候補のうち『家族』の葉真中顕と『神都の証人』の大門剛明はミステリー系の新人賞出身である。大門はデビューが2009年なので、初ノミネートまでが16年と、5人の中でいちばん長い。残るふたりのうち、『女王様の電話番』の渡辺優は小説すばる新人賞、『白鷺立つ』の住田祐は松本清張賞出身である。ちなみに、嶋津輝はオール讀物新人賞出身だ。
●嶋津輝『カフェーの帰り道』(東京創元社)2回目
●住田祐『白鷺立つ』(文藝春秋)初
●大門剛明『神都の証人』(講談社)初
●葉真中顕『家族』(文藝春秋)初
●渡辺優『女王様の電話番』(集英社)初
新しい顔ぶれということで、どれが受賞するかの予想はかなり難しくなった。ただ候補作にも共通項のようなものはあると思うので、今回はその点にも留意しながらレビュー、そして予想をしてみたいと思う。大衆文学界を背負って立つ人材は誰になるのか。
以下、作者50音順でまずは紹介していく。
戦前から戦後の期間を用いて女性ふたりの生活を描いた前回の候補作『襷がけの二人』(文藝春秋)は受賞は逃したが、選考委員には好評をもって迎えられた。今回の『カフェーの帰り道』は5章から成る連作小説で、物語構造に大きな特色がある。東京のカフェーは大正から始まり、風俗文化の1ジャンルとなり、女給のゴシップが新聞に掲載されることもあるほどに興隆した。しかし本編の舞台となる「カフェー西行」は上野というカフェー文化の場末にある店で、そうした華やかさからは程遠い。第1章の「稲子のカフェー」では、そこで働くタイ子という女性が話の中心になる。彼女は女給としてはやや年齢が高いが、意外なことから世間に注目されるようになるのだ。題名にある稲子というのは、夫の浮気相手がタイ子ではないかと疑う女性で、彼女が店にやってくることから話が始まる。
女性が働くことが当たり前ではなかった時代において、カフェーの女給は憧れの職業であったという前提がある。自分の手で金を稼ぐこと、着る物を選び自分のために装いを凝らすこと、といった自立への意志が各話の主人公に共通しており、大正から昭和前期の物語でありながら現代に通じる精神があるというのがまず美点である。自分ではその気がないのに図らずも嘘つきになってしまう「嘘つき美登里」の主人公など、キャラクター造形も印象的なものだ。1話ごとに時が経っていく年代記形式をとっており、物語はやがて戦争の季節に突入する。戦争はすべてを奪うものだということが物語の中で示される「出戻りセイ」「タイ子の昔」に胸を打たれる読者も多いだろう。最終篇「幾子のお土産」まで無駄なところがひとつもない、実に見事な作品だった。
これがデビュー作だが、新人離れした文章力のある作家である。おそらく長い執筆歴があるのではないだろうか。物語の構造は単純なのに、読む者を惹きつけて離さない吸引力がある。有無を言わせず読ませるという点では今回の候補作中随一であった。
舞台となるのは18世紀末の比叡山である。広大な面積の中に無数の寺社が佇立し、その総称が天台宗本山の延暦寺だ。冒頭では恃照という僧が千日回峰行に挑む場面が描かれる。この荒行を終えた者は大行満大阿闍梨の称号で呼ばれることになる。しかし失敗すれば自ら死を選ばなければならない。恃照はあと一歩のところで失敗し、意識を失う。本来ならば死なねばならない身の上だが、比叡山の幹部は彼に半行満阿闍梨の名を与えて生き延びさせようとする。実は恃照は先々帝の隠し子で、死なせるわけにはいかないという政治的事情があったのだ。生き恥に耐えなければならなくなった彼に次の試練が訪れる。新たに弟子を取らねばならなくなったのだが、後に戒閻と名付けることになるその男は恃照と同じ身の上、すなわち先帝の落胤なのであった。戒閻は師が失敗した千日峰回行に挑むと宣言する。
単純に言ってしまえば師弟の相克を描いた物語である。ふたりには出自の秘密という共通項があり、それゆえに恃照は戒閻に対して近親憎悪の思いを抱く。戒閻が師の思いを踏みにじって独善的に振る舞うのはなぜか、という謎がフックになっていて、この規格外の僧侶が何をするのかという関心が読者を惹きつけるのである。当時の仏教界は世俗化し、宗教としての独立性が失われていた。その停滞を破る異端児としての魅力が戒閻にある。まだ何者でもない者による自己実現の希求を軸とし、対立する人間関係によってそれを描きあげた。単純な構造の小説だが、ディテールの緻密さによって脆弱さを感じさせない作品となった。
これも昭和から令和に至る長い時間を扱った年代記形式の小説だ。題名にある「神都」とは旧伊勢国のことで、伊勢神宮を中心とする文化都市圏として同地域を盛り上げようという機運が戦前にあったという。戦時中の1943年、宇治山田市内で3人が殺される事件が起き、その一家に恨みを抱く者として谷口喜介という男性が逮捕、裁判で死刑を宣告される。弁護士の吾妻太一は谷口犯人説に疑念を抱いて調査を開始したところ、冤罪の可能性が高いことが判明する。谷口を救うために再審請求を行おうとする太一だったが、警察と検察が一体となった妨害工作のために苦戦を強いられることになる。
当時の日本が挙国一致体制にあったことがポイントで、大のためには小を犠牲にするもやむなしという思想がはびこっていた。ひとりの命を救おうとする行為は非国民的であり、太一は弁護士など要らない職業だと揶揄されるのである。この第1章は大政翼賛に慣らされた集団心理を恐ろしさを描いてひりひりするような恐怖がある。続く第2章では時代は戦後に移り、太一よりも下の世代である本郷辰治という男が主人公になる。不良育ちの辰治が次第に知性と法の正義に目覚めていく過程が読みどころだ。さらに第3章では昭和生まれ平成育ちの伊藤太一に語り手の役が受け継がれる。3世代がひとつの冤罪事件と闘う執念の物語であり、頑として自らの誤りを認めない検察の恐ろしさが浮かび上がってくる。その点は真摯に書かれており、読む者の心に十分に届くだろう。国が法を重んじるのを止めたら何が起きるかという警鐘を鳴らす物語でもある。欲を言えば、3世代のリレーを描く規模の大きさには感心するものの、事件の手がかりが得られる過程がやや容易に感じられる点で、ここでもう少しスリルがあってもよかったかも、と思う。ないものねだりで申し訳ないのだが。
葉真中は社会小説の書き手で、制度矛盾によるひずみや誤解の積み重ねによって生じた残念な歴史的事件などを題材として定評がある。その葉真中が実在の事件をモデルとして書いた犯罪小説だ。読み始めてすぐにそれとわかるし、参考文献などで明らかにしているので書いてしまうが、2011年に発覚した尼崎事件である。ある女性容疑者が他人の家族を乗っ取る形で血のつながらない大規模な疑似家族を作り、結束を高めるためのみせしめとして何人もの命を奪っていた。しかもそれを犠牲者の肉親にやらせていたのである。本来ならばやらないようなことまでやらせてしまう人心操作と洗脳が女の武器だった。
現実の事件と同様、監禁されていた犠牲者が脱走して警察に駆け込むことで事件は発覚する。作者はあえて時系列に沿った形での叙述を行わず、事件を砕片化して出来事の順番をシャッフルして並べ直している。そのため読み始めたときは混乱する可能性もあるが、ページを繰っていくうちに全体像が見えてくるので、気にならなくなってくる。事件の全貌が見えない不気味さが事件の特徴であり、それを醸し出すための技巧である。
夜戸瑠璃子という主犯の女性は、怪物的な肥満という特徴はあるものの、内面の掘り下げはなく、理解を超えた存在として描かれている。彼女が頻繁に口にするのは家族という言葉である。家族ゆえに無条件の奉仕を求められ、家族であるゆえに背けば罰せられる。では家族とは何かということを読者に考えさせることが狙いなのだろう。核家族を1単位として自明のものと考えること、トー横のように疑似家族的な紐帯を求める者がいること、その両極に『家族』という物語は疑義をつきつける。ミステリーだが解かれないままのピースも残る。余韻を招く結末ととられるか、未整理と断じられるか。選考会の論点になりそうだ。
主人公の〈私〉こと志川は新卒で入ったM不動産を辞め、性風俗店の電話受付のアルバイトを始める。サービスは一方的に性的マッサージをするだけで、キャストは服も脱がない。いわゆる女王様キャラクターなのである。50歳のベテラン、美織女王様に志川はひそかに憧れの気持ちを抱いている。物語の冒頭ではその店「ファムファタル」の描写が志川の視点から詳細に行われるので、ひとつの業界を丹念に描く変型の仕事小説かと思っていると序盤の最後で変化が生じる。キャストのひとりが失踪し、志川がその行方を探し始めるという展開になるのだ。ここは1人称私立探偵的なプロットが使われている。その主筋とは別に、志川がなぜM不動産を辞めたのかという謎がフックとして置かれており、これが物語を牽引すると同時に、小説の主題について読者に考えさせるための鍵にもなっていく。
自らのセクシュアリティーについての世間との乖離を覚える主人公が、その視点を有したまま社会を見て、さまざまな疑義を呈示してくる。そうした問いかけの物語であり、志川の語りがユーモアにくるまれている点が非常に巧い。何しろ冒頭から「この世界はスーパーセックスワールドだ」という書き出しなのである。志川によれば性欲を向ける対象を発見した者の眼からはスーパーセックスビームが出始めるのだという。このネーミングだけでも非常に可笑しい。わからないことづくめの志川は人々が口にする当たり前や常識にもいちいちつまづくので、そのたびに脳細胞が刺激され、そういえばそれってなんだったっけ、と考えたくなってくる。作者の戦略勝ちだろう。そういう小説だから予定調和から程遠いところに結末は辿り着く。その結末近くにある登場人物が志川に思いがけない世界解釈を突き付ける場面があり、そこにも目が覚めるような驚きと視界が晴れやかになる快感があった。
今回も予想は極めて難しい。個人的な好みで言えば『カフェーの帰り道』で、『襷がけの二人』でも使われた昭和の時代を女性個人の視点で描くという技巧に磨きがかけられた。連作形式を取ることで間の時代を省略し、物語の劇的演出を高めたという点も評価できると思う。大正から昭和にかけての物語なのに現代にも通じる要素が封入されていて、登場人物に好感を抱く読者は多いのではないかと思う。実はジェンダーについての問題提起をしている物語なのだが、主張が目立つために進行が妨げられるということもない。何よりも登場人物が魅力的なのである。
『女王様の電話番』も現代性という意味では秀でたものがある。こちらはユーモアの糖衣にくるんだ物の言い方がよく、5作でもっとも笑えた。志川をやや世間知らずに設定し、何でもずけずけと踏み込んでいく人物としたのも成功だと思う。彼女は何も知らない主人公なのだが、それは自身のセクシュアリティーが説明することの難しいものであるという自己認識から来ている。そうした主人公を配したキャラクター小説として上手いのである。
『家族』『神都の証人』は両方とも事件小説だが、前者は多数の証言によって煙幕を作り、理解不能性の不気味さが次第に読者に迫るという書き方をしている。後者は前述したように年代記的で、ひとつの冤罪事件を軸に多くの人が奮闘する中で、制度の持つ非人間性が強調されるという展開だ。共に完璧ではないが、多くの人の心に届く作品だと思う。
一方、『白鷺立つ』は現代性からは離れ、普遍的な人間の心を新しい題材で書くという試みの小説である。筋立ての単純さを補って余りあるのが文章の力で、「何を」ではなく「どう」書くかで勝負している。5作の内でも文章力は評価すべきところがある。
願望込みで書いてしまうが今回の受賞予想は嶋津輝『カフェーの帰り道』、対抗として1作だけ毛色の違う住田祐『白鷺立つ』もありうる、としておきたい。前回が受賞作なしだったので今回はぜひ出してもらいたい。出せる候補作だと思う。
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