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「悲劇の世界遺産」書評 近代社会の矛盾に対峙する場所

評者: 阿古智子 / 朝⽇新聞掲載:2021年06月26日
悲劇の世界遺産 ダークツーリズムから見た世界 (文春新書) 著者:井出 明 出版社:文藝春秋 ジャンル:新書・選書・ブックレット

ISBN: 9784166613137
発売⽇: 2021/05/20
サイズ: 18cm/220p

「悲劇の世界遺産」 [著]井出明

 息子が通う小学校の移転予定地に、旧中野刑務所正門が残っている。その保存を求める市民運動で、私はダークツーリズムを知った。そして、「暗いイメージの刑務所の門を小学校に残すなんて」「歴史認識の対立が生じるから学校では議論しない」として、タブー視されていた正門の見方が大きく変わった。
 ダークツーリズムとは平たく言うと、「戦争や災害などの悲劇の記憶を巡る旅」。日本の文化遺産は地域の誉れや栄光の物語として捉えられがちだが、影の部分から見えるものも人間の深い思考を促す。一方面からの被害や被災に重きを置くと、全体像を把握できないという問題もある。
 ダークツーリズムは、近代社会の価値概念が壁に突き当たるなかで発展した。そうした視点から世界遺産を見ると、将来に残すべき普遍的価値が重要になる。
 同じ産業遺産でも、明治日本の産業革命遺産は短期間で成し遂げた近代化を強調するが、大英帝国の植民地拡大時代の大規模な囚人移送や強制労働を明らかにするオーストラリアの囚人遺跡群では、訪問者は近代社会の抱える矛盾に対峙(たいじ)させられる。
 しかし、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産のように、「禁教の歴史」が「ヨーロッパの文明観」で描かれると、正統派カトリックとは異なる日本独自の信仰活動が認められず、「寺社の焼き討(う)ちや宣教師を通じた奴隷の輸出を行っていたキリシタン大名たちの蛮行」も見えなくなる。
 ナチス・ドイツが建設したアウシュビッツ強制収容所から、世界各地の産業遺産、刑務施設、国防、防疫などの役割を負ってきた島々、世界遺産を通して見える災害や戦争からの復興デザインの描かれ方に至るまで、本書は読んでいて、実際に深く考えながら、世界旅行をしているような気持ちにさせてくれる。ステイホームの時間が長い新型コロナ生活の読書にもうってつけだ。
    ◇
いで・あきら 1968年生まれ。金沢大准教授。観光学者。著書に『ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅』など。